『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書19章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
主はこう仰せられる。「行って、土の焼き物のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人といっしょに、
2節
『瀬戸のかけらの門』の入口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを呼ばわって、
3節
言え。『ユダの王たちとエルサレムの住民よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。
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3節1行目から、「・・・ユダの『王たち』とエルサレムの住民よ。主のことばを聞け。・・・」とあります。
エレミヤ書17章20節(その2、冒頭)の、「これらの門のうちに入るユダの『王たち』、・・・エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。」と、よく似ています。
19章3節(上記)にも、「・・・ユダの『王たち』・・・」、という言葉があります。
「・・・ユダの『王たち』・・・よ。主のことばを聞け。・・・」と書かれています。
「王たち」について その3、で述べたのと同様に、これが例えば、列王記の、ユダの王ゼデキヤの時代のことだとすると、「『王たち』・・・よ」、ではなく、『王』よ(聞け)、になるはずです。
エレミヤ書22章1節と2節に、次のように書かれています。
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1節
主はこう仰せられる。「ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って、
2節
言え。『ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちに入って来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け。
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2節1行目から、「・・・ダビデの王座に着いているユダの『王よ』。・・・主のことばを聞け。」とあります。
このように、ある王の治世には、ユダの『王よ』聞け、になるはずです。
これに対して、エレミヤ書22章4節には、次のように書かれています。
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4節
もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、*彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちに入ることができよう。
* 直訳「彼も」
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1行目から、「・・・ダビデの王座に着いている『王たち』・・・」とあります。
「ダビデの王座に着いている『王たち』は、・・・この家の門のうちに入ることができよう。」と書かれています。
「この家」というのは、22章1節(上記)の「・・・ユダの王の家・・・」のこと、と言うことができると思います。
エレミヤ書22章4節に書かれていることと似たようなことが、同書17章25節(その3、後半)に書かれています。
ただし、22章4節の場合は、「この『家』の門」となっているのに対して、17章25節(その3、後半)の場合は、「この『町』の門」となっています。
ユダの『王たち』よ、主のことばを聞け(19章3節、上記冒頭)や、ダビデの王座に着いている『王たち』は、この家(すなわち、ユダの王の家)の門のうちに入ることができよう(22章4節、上記)、というのは、どのように理解したらよいと思われますか。