「暴虐」について その10

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書8章16節と17節に、次のように書かれています。
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16節
そして、この方は私をの宮の内庭に連れて行った。すると、の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らはの宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
17節
この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。
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17節3行目から、「・・・彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。・・・」とあります。

 

「彼ら」というのは、16節2行目からの、「・・・二十五人ばかりの人・・・」のこと、と言うことができると思います。

 

そうすると、この「二十五人ばかりの人」は「この地を暴虐で満たし・・・ている」、ということになります。

 

そして、その「二十五人ばかりの人」は「わたしの怒りをいっそう駆り立てている」(下から2行目)、となります。

 

「この地を暴虐で満たし・・・ている」ので、「わたしの怒りをいっそう駆り立てている」、ということになるのではないでしょうか。

 

エゼキエル書8章3節に、次のように書かれています。
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3節
すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行(ゆ)き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。
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2行目から、「・・・すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行(ゆ)き、・・・」とあります。

 

「霊」は、「私」を、『エルサレム』へ携えて行った、と言うことができます。

 

そして8章3節以降は、『エルサレム』についてのことが書かれている、と言うことができると思います。特に、「の宮」でのことについて書かれていると思います。

 

「二十五人ばかりの人」(16節2行目から、上記冒頭)が「この地を暴虐で満たし・・・ている」、の「この地」というのは、8章3節の記述、および同章3節以降の、「の宮」でのことについての記述から、『エルサレム』のことであると考えられます。

 

しかし、「イスラエルの地」のことであるという可能性はあります。

 

「彼らはこの地を暴虐で満たし・・・ている」(17節3行目から、上記)、は、「二十五人ばかりの人」が「『エルサレムを暴虐で満たし・・・ている」、となります。

 

その11、に続きます。