「復活」について その6

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章9節と10節に、次のように書かれています。
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9節
そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
10節
私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
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10節1行目から、「私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。・・・」とあります。

 

「彼ら」というのは、「この殺された者たち」(9節)のこと、と言うことができます。

 

「彼ら(すなわち、この殺された者たち)は生き返り、自分の足で立ち上がった」(10節)、ということが言われています。

 

これは、『復活』のことを言っているのではないでしょうか。

 

エゼキエル書37章11節に、次のように書かれています。
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11節
主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエル全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。
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1行目から、「・・・人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。・・・」とあります。

 

つまり、エゼキエル書37章1節から10節までに書かれていることは、『イスラエルの全家』の骨についてのことであり、それが生き返るということ、すなわち、『イスラエルの全家』の『復活』についてのことである、ということです。

 

以上見て来たように、『イスラエルの全家』は、『骨』と『肉』を持って『復活』する、と言うことができると思います。

 

そして、イエスが『肉や骨』を持って(ルカ24:39、その2冒頭)よみがえられたのは、『イスラエルの全家』の『復活』を予め示した「型」なのではないか、と考えられるのです。

 

あるいは、『イスラエルの全家』の『復活』の「象徴」と言うこともできると思います。

 

エスが『肉や骨』を持って(ルカ24:39、その2冒頭)よみがえられたことは、① 「変えられる」ことの「予型」、② 「イスラエルの全家」の復活の「予型」と考えられると思います。

 

①か②のどちらかなのか、それとも、両方なのか、あるいは、そのどちらでもないのかについては、今のところ何とも言えません。

 

ただ現時点では、②ではないか、という思いがあります。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。