『新改訳聖書』第3版のエペソ人への手紙2章20節から22節まで(その2冒頭)に、次のように書かれています。
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20節
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21節
この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22節
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(みたま)によって神の御(み)住まいとなるのです。
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21節に、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる『宮』となるのであり、」とあり、22節に、「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(みたま)によって『神の御(み)住まい』となるのです。」とあります。
「この方」というのは、「キリスト・イエス」(20節)のことです。
コリント人への手紙 第二6章16節(その22終わりのほう)の、「・・・私たちは生ける神の『宮』なのです。・・・」と、エペソ人への手紙2章21節(上記冒頭)の、「・・・主にある聖なる『宮』となる・・・」は、表現は違いますが、同じことを言っていると思われます。
コリント人への手紙 第二1章21節に、次のように書かれています。
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21節
私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
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1行目に、「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、」とあります。
「『キリストのうちに』堅く保ち」とあるので、「私たち」と「あなたがた」は『キリストにある者』である、と言うことができると思います。
コリント人への手紙 第二1章21節に続いて、22節に、次のように書かれています。
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22節
神はまた、確認の印を私たちに押し、*保証として、御霊(みたま)を私たちの心に与えてくださいました。
* あるいは「手付け金」
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「神はまた・・・*保証(あるいは、手付け金)として、御霊(みたま)を私たちの心に与えてくださいました。」とあります。
「神はまた・・・*保証(あるいは、『手付け金』)として、御霊(みたま)を私たちの心に与えてくださ」った、ということが言われています。
「御霊(みたま)」は『手付け金』である、ということが分かります。
つまり、神は「私たち」に『手付け金』を渡してくださったのですが、それは後で『買い取って』くださるからである、と考えられます。
後で『買い取って』くださることの「保証」として、『手付け金』である「御霊(みたま)」を与えてくださった、と言うことができると思います。
このように、「神はまた・・・御霊(みたま)を私たちの心に与えてくださいました」、とあることから、「私たちの心」には『御霊(みたま)』がある、と言うことができます。
「私たちの心」には『御霊(みたま)』がある、というのは、「私たち」のうちには『御霊(みたま)』が住んでいる、と言い換えることができるのではないでしょうか。
そして「私たち」は「『キリストのうちに』堅く保」(Ⅱコリ1:21、上記)たれている者です。
つまり、「私たち」は『キリストにある者』である、ということです。
『キリストにある者』のうちには『御霊(みたま)』が住んでいる、と言うことができると思います。
以上述べて来たように、「私たちは生ける神の『宮』なのです」(Ⅱコリ6:16、その22終わりのほう)と言う場合、「私たち」は『キリストにある者』であり、「私たち」には『御霊(みたま)』が住んでいる、と言うことができると思います。
その24、に続きます。