『新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章5節と6節に、次のように書かれています。
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5節
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その*保証として御霊(みたま)を下さいました。
* あるいは「手付け金」
6節
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
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6節1行目から、「・・・ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」とあります。
「私たちが『肉体にいる』間は、『主から離れている』」、ということが書かれています。
コリント人への手紙 第一6章11節に、次のように書かれています。
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11節
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御(み)名と私たちの神の御霊(みたま)によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
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2行目から、「・・・主イエス・キリストの御(み)名と私たちの神の御霊(みたま)によって、あなたがたは『洗われ』、『聖なる者とされ』、義と認められたのです。」とあります。
「あなたがた」というのは、「コリントにある神の教会」(Ⅰコリ1:2)のこと、と言うことができると思います。コリント人への手紙 第一1章2節と3節をご参照ください。
「あなたがた」は「主イエス・キリストの御(み)名と私たちの神の御霊(みたま)によって・・・『洗われ』、『聖なる者とされ』・・・たのです」が、「私たちが『肉体にいる』間は、『主から離れている』」(Ⅱコリ5:6、上記冒頭)、ということになります。
この場合、「私たち」の中に「あなたがた」を含めてよいと思います。
「『肉体にいる』間は、『主から離れている』」という点では、「私たち」も「あなたがた」も同じだからです。
「私たち」も「あなたがた」も、『肉体にいる』、のです。
しかし、神の御霊(みたま)によって、『肉にある者』(ローマ8:8)ではない、のです。ローマ人への手紙8章8節と9節(その24冒頭)をご参照ください。
ローマ人への手紙8章9節の記述から、「私たちが『肉体にいる』間」(Ⅱコリ5:6、上記冒頭)であっても、神の『御霊(みたま)』が「私たち」のうちに住むことはできる、と言うことができます。
しかし、『肉体にいる』間は『主から離れている』ので、『神』ご自身が「私たち」のうちに住まわれることはない、と考えられます。
「主イエス・キリストの御(み)名と私たちの神の御霊(みたま)によって・・・『洗われ』、『聖なる者とされ』・・・た」とは言え、『肉体』はきよいものとは言えないからです。
『肉体』には、「大」や「小」などのきれいでない物があるからです。
そのため、『神』ご自身が「私たち」のうちに住まわれることはない、と考えられます。
つまり、「あなたがたは神の神殿であり」(Ⅰコリ3:16、その1冒頭)、「あなたがたがその神殿です」(Ⅰコリ3:17、その1冒頭)と言っても、「あなたがた」が『肉体にいる』間は、「あなたがた」のうちに『神』が住まわれることはない、ということです。
その26、に続きます。