「神殿」について その26

新改訳聖書』第3版の使徒の働き7章46節から48節までに、次のように書かれています。
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46節
ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの*神のために御(み)住まいを得たいと願い求めました。

 

* ごく初期の写本に「家」とあるものが多い。七十人訳は「神」(詩一三二・五)である

 

47節
けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
48節
しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
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46節に、「ダビデは・・・ヤコブの*神のために御(み)住まいを得たいと願い求めました。」とあり、47節に、「けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。」とあります。

 

そして、48節1行目から、「しかし、いと高き方は、『手で造った家』にはお住みになりません。」とあります。

 

ソロモンは「神のために家を建てた」(47節)のですが、「いと高き方は、『手で造った家』にはお住みになりません。」(48節)という文脈になります。

 

この文脈からすると、「いと高き方」というのは、「神」のことと考えられます。

 

「いと高き方」が「神」であるとすると、「神は、『手で造った家』にはお住みになりません。」となります。

 

言い換えると、神はソロモンが建てた神殿にはお住みになりません、となります。

 

ソロモンが建てた神殿は、『手で造った家』だからです。

 

列王記 第一8章27節には、次のように書かれています。
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27節
それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
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これは、ソロモンが言った言葉です。列王記 第一8章22節からをご参照ください。

 

2行目から、「・・・天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」とあります。

 

「天も、天の天も、あなたをお入れすることはでき」ないのですから、「私の建てたこの宮など、なおさらのことです」、という文脈になります。

 

「私の建てたこの宮など、なおさらのことです」というのは、「私の建てたこの宮など、なおさら」「あなたをお入れすることはできません」、になると思います。

 

「あなたをお入れすることはでき」ないのであれば、「私の建てたこの宮など」に『住まわれることはない』、という内容になると思います。

 

「私の建てたこの宮」が『地の上』(上記27節)にあることからも、神はその宮に『住まわれることはない』、と言うことができると思います。

 

つまり、ソロモンは「この宮」を神の『御(み)住まい』のために建てたのではない、ということです。

 

では何のために建てたのかと言いますと、それは、「の『名』」のためであり、「わたし(すなわち、イスラエル神、)の『名』をそこに置く」ためです。列王記 
第一
8章20節、29節、44節、48節等をご参照ください。

 

8章27節の言葉は、ソロモンの「祈りと願い」の一部です。列王記 第一8章54節をご参照ください。

 

その「祈りと願い」は、8章23節に始まり8章53節で終わっています。

 

その「祈りと願い」の中でソロモンは、神の『御(み)住まい』は『天』であると言っています。列王記 第一8章30節、39節、43節、49節等をご参照ください。

 

神の『御(み)住まい』は『天』であると言われていますが、『あなたがた』が神の『御(み)住まい』となる(エペソ2:22、その2冒頭)ときが来る、と言うことができると思います。

 

『あなたがた』というのは、『キリストにあって』、『御霊(みたま)』が与えられた人たちのことです。エペソ人への手紙2章22節(その2、その23)をご参照ください。

 

その27、に続きます。