「神殿」について その27

新改訳聖書』第3版の使徒の働き7章48節(その26冒頭)に、次のように書かれています。
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48節
しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
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1行目から、「しかし、いと高き方は、『手で造った家』にはお住みになりません。」とあります。

 

この言葉から、ソロモンの神殿は『手で造った家』なので、神は、ソロモンの神殿にはお住みにならない、と言うことができます。

 

これに対して、『あなたがた』(エペソ2:22、その2及びその23)は『人』であり、『人』は『神が造られたもの』です。

 

『人』は『手で造った家』ではなく、神が造られたものなので、「このキリストにあって、『あなたがた』もともに建てられ、御霊(みたま)によって『神の御(み)住まいとなる』」(エペソ2:22、その2及びその23)ことができるのだと思います。

 

つまり、『人』である『あなたがた』は『神の御(み)住まいとなる』ことができる、ということです。

 

コリント人への手紙 第二5章1節に、次のように書かれています。
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1節
私たちの*住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 

* 直訳「地上の幕屋の家」

 

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1行目から、「私たちの*住まいである地上の幕屋(直訳、地上の幕屋の家)がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」とあります。

 

「私たちの*住まいである地上の幕屋」は、直訳では、「私たちの地上の幕屋の家」となります。

 

「私たちの・・・家」というのは、「私たち」が何かの『家』であることを示している、と言うことができると思います。

 

何の『家』でしょうか。

 

『家』ですから、誰かが『住む』と考えられます。

 

コリント人への手紙 第二5章1節(上記)には、「私たちの地上の幕屋の『家』」、とあります。

 

これは、「地上」にある、「幕屋」を備えた『家』と読むことができると思います。

 

コリント人への手紙 第二5章1節に続いて、2節から4節までに、次のように書かれています。
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2節
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
3節
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
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4節2行目から、「・・・それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。・・・」とあります。

 

「この幕屋を脱ぎたい」という言葉から、「私たち」は「この幕屋」を『着ている』、と言うことができます。

 

「この幕屋」を『着ている』というのは、「この幕屋」を『備えている』、と言い換えることができると思います。

 

「この幕屋」というのは、2節1行目の「この幕屋」のことであり、それは、1節(上記)1行目の、「地上の幕屋」のことと考えられます。

 

「私たち」が「この幕屋」を『着ている』『家』であるとすると、言い換えると、「この幕屋」を『備えている』『家』であるとすると、その『家』には誰かが『住む』と考えられます。

 

その28、に続きます。