「神殿」について その28

新改訳聖書』第3版の列王記 第一8章27節(その26中ほど)に、次のように書かれています。
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27節
それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはことはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
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1行目から、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。」とあります。

 

「天も、天の天も、あなたをお入れすることはでき」ないのであれば、『地』が「あなたをお入れすることはでき」ない、ということになります。

 

『地』は天よりも小さいからです。

 

上記冒頭27節の記述から、「神は・・・『地の上に』住まわれる」ことはない、と言うことができると思います。

 

神が『地の上に』住まわれることがないのであれば、「『地上の』幕屋の家」(Ⅱコリ5:1、その27前半)に住まわれることもない、と言うことができます。

 

「『地上の』幕屋の家」は『地』よりも小さいからです。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(その27後半)の、「この幕屋を脱ぎたい」という言葉から、「私たち」は「この幕屋」を『着ている』、と言うことができます。

 

「私たち」が「この幕屋」を『着ている』『家』であるとすると、その『家』には誰かが『住む』と考えられるのですが、神がその『家』に、すなわち、「『地上の』幕屋の家」にお住みになることはない、と言うことができます。

 

「私たちの『地上の』幕屋の家」(Ⅱコリ5:1、その27前半)は、『地』よりも小さいからです。

 

ただし、「『地上の』幕屋の家」の場合は、小さいからというだけではなく、『肉体』であるということからも、お住みになることはない、と考えられます。

 

神ご自身は「『地上の』幕屋の家」にお住みになることはないと言うことができますが、「『地上の』幕屋の家」であっても、住むことのできる方がいます。

 

ローマ人への手紙8章9節(その24冒頭)に、次のように書かれています。
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9節
けれども、もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊(みたま)の中にいるのです。キリストの御霊(みたま)を持たない人は、キリストのものではありません。
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1行目から、「けれども、もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、・・・」とあります。

 

『神の御霊(みたま)』は『あなたがたのうちに』住むことができる、ということが分かります。

 

『あなたがた』は、『私たち』(Ⅱコリ5:1、その27前半)と同じように、「『地上の』幕屋の家」である、と言うことができます。

 

「『地上の』幕屋の家」であっても、『あなたがた』のうちに『神の御霊(みたま)』は住むことができるのです。

 

「私たち」が「この幕屋」、すなわち、『地上の』幕屋を『着ている』『家』であるとすると、その『家』には誰かが『住む』と考えられるのですが、『地上の』幕屋であるために、『神ご自身』が住まわれることはなく、住むのは『神の御霊(みたま)』である、ということになります。

 

この点で、『神』と『神の御霊(みたま)』とは『違う存在』である、と言うことができます。

 

つまり、「『地上の』幕屋の家」に、『神』はお住みになることはできませんが、『神の御霊(みたま)』は住むことができる、という点で、『神』と『神の御霊(みたま)』とは『違う存在』である、ということです。

 

その29、に続きます。