『新改訳聖書』第3版のエゼキエル書37章11節に、次のように書かれています。
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11節
主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。
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1行目から、「・・・これらの骨は『イスラエルの全家』である。・・・」とあります。
「これらの骨は『イスラエルの全家』である」、ということが分かります。
2行目から、「・・・彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。」とあります。
「彼ら」すなわち『イスラエルの全家』は、「弱音(よわね)」をはいているように思えます。
『イスラエルの全家』は「弱く」なっている、もしくは「弱々しく」なっているように思えます。
しかし神が目を留められるのは、そのような者たちであると思います。
そのような、「弱く」なっている、もしくは「弱々しく」なっている者たちは、「謙虚である」と、あるいは「へりくだる」と考えられるからです。
イザヤ書66章2節に、次のように書かれています。
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2節
これらすべては、わたしの手が造ったもの、
これらすべては*わたしのものだ。
―主の御(み)告げ―
わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。
* 七十人訳、シリヤ語訳による
ヘ「ある」
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4行目から、「わたしが目を留める者は、『へりくだって』心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」とあります。
3行目に、「―主の御(み)告げ―」とあることから、「わたし」というのは「主」のことである、ということが分かると思います。
「主」というのは、『神の御(み)名』、『神のお名まえ』です。
エゼキエル書37章12節に、次のように書かれています。
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12節
それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行(い)く。
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1行目に、「それゆえ、預言して彼らに言え。・・・」とあります。
この「彼ら」というのは、11節(上記冒頭)2行目の「彼ら」と同じで、『イスラエルの全家』のこと、と言うことができます。
2行目に、「わたしの民よ。・・・」とあります。
2行目から、「わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行(い)く。」とあります。
この記述から、「わたしの民」は『墓』の中にいる、ということが分かります。
つまり、墓に葬られている、ということです。
これに対して、「谷間の真ん中」に満ちていた「骨」である『イスラエルの全家』は墓に葬られていないと思われます。
「谷間の真ん中」に満ちているのが『見えている』からです。37章1節と2節をご参照ください。
つまり、『イスラエルの全家』は『墓』の中にいたのではない、ということです。
『イスラエルの全家』の「骨」は、墓に葬られていないと考えられます。
その18、に続きます。