「神殿」について その24

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章9節に、次のように書かれています。
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9節
けれども、もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊(みたま)の中にいるのです。キリストの御霊(みたま)を持たない人は、キリストのものではありません。
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1行目から、「・・・もし神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは『肉の中にではなく』、御霊(みたま)の中にいるのです。・・・」とあります。

 

『肉の中にではなく』というのは、『肉の中にいるのではなく』と読むことができます。

 

「神の御霊(みたま)があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは『肉の中に』」いるのではない、ということが言われています。

 

この言葉から、コリント人への手紙 第二6章16節(その22終わりのほう)の「私たち」というのは、『肉の中に』いるのではない、と言うことができると思います。

 

その「私たち」には神の『御霊(みたま)』が住んでいる、と言うことができるからです。「その23」第八段落以降をご参照ください。

 

つまり、コリント人への手紙 第二6章16節(その22終わりのほう)の「私たち」は、『肉にある者』(ローマ8:8)ではない、ということです。

 

この点で、エゼキエル書37章24節(その22前半)の「彼ら」、すなわち、同書37章21節(その18中ほど)2行目の『イスラエル人』と同じです。

 

しかし、エゼキエル書で語られているのは、『イスラエル人』についてのことであるのに対して、コリント人への手紙で語られているのは、『コリント人』についてのことです。

 

この点では違っています。

 

ところで、エゼキエル書37章24節(その22前半)の「彼ら」、すなわち、同書37章21節(その18中ほど)2行目の『イスラエル人』は、いつの時代の人たちであると考えられるでしょうか。

 

エゼキエル書37章24節の、「・・・彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」、ということばがヒントになります。

 

現在までで、『イスラエル人』が「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことがあったでしょうか。

 

現在、『イスラエル人』は人を殺すことがあります。

 

「殺してはならない」という「定め」に従って歩んでいる、と言えるでしょうか。

 

答えは簡単です。「言えない」、です。

 

イスラエル人』が「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことができないのは、彼らが『肉にある者』(ローマ8:8)だからである、と言うことができます。

 

ローマ人への手紙8章7節に、次のように書かれています。
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7節
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
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「『肉の思い』は・・・神の律法に・・・服従できないのです。」とあります。

 

『肉の思い』を抱(いだ)くのは、『肉にある者』ではないでしょうか。

 

『肉にある者』が『肉の思い』を抱(いだ)く、と言うことができます。

 

現在の『イスラエル人』だけではなく、現在までの『イスラエル人』も、『肉にある者』なので、「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことができない、のです。

 

レビ記26章11節と12節(いずれも、その21冒頭)の「あなたがた」、すなわち、エジプトを出て来たイスラエルの民と同じです。

 

イスラエル人』が『肉にある者』(ローマ8:8)である限り、「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことはできないのです。

 

現在までそれができていないということは、「わたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う」ことができるようになるのは、『将来のこと』である、ということです。

 

つまり、エゼキエル書37章24節(その22前半)の「彼ら」、すなわち、同書37章21節(その18中ほど)2行目の『イスラエル人』は、『キリスト以降』の人たちである、ということです。

 

そしてそれはまた、「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」(エゼキエル37:24、その22前半)る時代の人たちである、ということです。

 

そうすると、「わたしのしもべダビデが彼らの王とな」るのは、『キリスト以降』のことである、ということになります。

 

その25、に続きます。