『新改訳聖書』第3版の列王記 第一8章や、6章と7章の記述から、『宮』というのは『神殿』のことである、ということが言えると思います。
エペソ人への手紙2章21節(その2冒頭)の、「・・・主にある聖なる『宮』・・・」というのは、「・・・主にある聖なる『神殿』・・・」のこと、と言い換えることができます。
エペソ人への手紙2章21節と22節(いずれも、その2冒頭)に、「(21節)この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、(22節)このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(みたま)によって神の御(み)住まいとなるのです。」とあります。
21節の、「この方(すなわち、キリスト・イエス)にあって、組み合わされた建物の全体」というのは、どのようなものであると考えられるでしょうか。
それは、
① キリスト・イエスという礎石
② 使徒と預言者という土台
③ その土台の上に建てられた、あなたがた
の三つが「組み合わされた建物」のことではないか、と考えられます。
あるいは、①と②の土台の上に建てられた『あなたがた』のこと、と考えられます。
この場合は、『あなたがた』だけが「組み合わされた建物」ということになります。
エペソ人への手紙2章21節(その2冒頭)に、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が『成長し』、・・・」とあります。
①の「キリスト・イエス」、及び②の「使徒と預言者」については、『成長』というのは無いのではないかと思われます。
『土台』だからです。
そうだとすると、「組み合わされた建物の全体」というのは、『あなたがた』が「組み合わされた」もの、ということになります。
どちらであるのか、すなわち、三つが「組み合わされた建物」のことであるのか、あるいは、①と②の土台の上に建てられた『あなたがた』のことであるのかは、もう少し吟味してみたいと思います。
わたしは「その1」の第3段落で、コリント人への手紙 第一3章16節と17節(いずれも、その1冒頭)の「あなたがた」というのは、『キリストにある』(Ⅰコリ3:1、その1前半)者のことと言うことができると思います、と述べました。「その1」をご参照ください。
エペソ人への手紙でも、2章21節(その2冒頭)に、「この方にあって・・・」とあります。
「この方」というのは、「キリスト・イエス」(20節、その2冒頭)のことです。
「この方にあって」というのは、「キリスト・イエスにあって」ということになります。
また、エペソ人への手紙2章22節(その2冒頭)には、「このキリストにあって・・・」とあります。
つまり、エペソ人への手紙でも、『キリストにある』者のことが語られている、ということです。
「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる『宮』となる」、つまり、「組み合わされた建物の全体」が「聖なる『宮』」となるのですが、『あなたがた』はその「聖なる『宮』」の一部なのです。
言い換えると、「聖なる『神殿』」の一部なのです。
「あなたがたは神の神殿であり」(Ⅰコリ3:16、その1冒頭)や、「あなたがたがその神殿です」(Ⅰコリ3:17、その1冒頭)、と言う場合、それは、『あなたがた』は神の『神殿の一部』として、神の『神殿』である、ということではないかと思います。
エペソ人への手紙2章22節(その2冒頭)には、「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(みたま)によって神の御(み)住まいとなるです。」とあります。
『あなたがた』というのは、『このキリストにある』者のこと、と言うことができると思います。
コリント人であってもエペソ人であっても、『キリストにある』者は『神の神殿』または『聖なる宮』である、ということが言えると思います。
その4、に続きます。