「神殿」について その34

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その32冒頭)と5節(その25冒頭)に、次のように書かれています。
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4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5節
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その*保証として御霊(みたま)を下さいました。

 

* あるいは「手付け金」

 

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5節1行目に、「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。」とあります。

 

「このこと」とは何でしょうか。

 

それは、4節4行目の、「・・・死ぬべきものがいのちにのまれてしまう・・・」こと、と言うことができます。

 

そうすると、「このことにかなう者」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」、となります。

 

「私たちをこのことにかなう者としてくださった」(5節)とあるので、「私たち」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされた(5節)、ということになります。

 

そして5節2行目に、「神は、その*保証(あるいは、手付け金)として御霊(みたま)を下さいました。」とあります。

 

「その保証」というのは、「私たち」が、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされた(5節)ことの「保証」のこと、と言うことができると思います。

 

つまり、「私たち」のうちに御霊(みたま)が住んでいるということは、「私たち」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされたことが「保証」された、ということです。

 

また、「その手付け金」というのは、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされたことに対して、「私たち」に支払われた「手付け金」のこと、と言うことができると思います。

 

「御霊(みたま)」が「手付け金」にたとえられています。

 

「手付け金」ですから、後に『買い取られる』ことが想定されます。

 

売主は「私たち」で、買主は「神」です。

 

つまり、まず「手付け金」として「御霊(みたま)」が与えられ、それが「保証」となって、「御霊(みたま)」が与えられた者は、後に「神」によって『買い取られる』、ということです。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下と「その31」で述べたように、『死ぬべきもの』であっても、イエスを信じるなら、「死んでも『生きる』」ということであり、また「決して『死ぬことが(ありません)ない』」、ということであると考えられます。

 

「私たちをこのことにかなう者としてくださった」というのは、つまり、「私たち」は「死んでも『生きる』」ことにかなう者とされた、ということであり、また「決して『死ぬことが(ありません)ない』」ことにかなう者とされた、ということです。

 

「神は、その*保証(あるいは、手付け金)として御霊(みたま)を下さ」(上記冒頭5節)った、のです。

 

その35、に続きます。