「神殿」について その33

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章1節(その30冒頭)に、次のように書かれています。
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1節
私たちの*住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 

* 直訳「地上の幕屋の家」

 

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1行目から、「私たちの*住まいである地上の幕屋(直訳、地上の幕屋の家)がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」とあります。

 

「私たちの地上の幕屋の家がこわれ」る、というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

はっきり書かれているわけではありませんが、これも、「この幕屋(すなわち、私たちの『地上の幕屋』)を脱」ぐと同じで、『死ぬ』ということであると考えられます。

 

『死ぬ』というのは、この場合、『地上での』いのちを終える、ということです。

 

「わたしを信じる者」(ヨハネ11:25、その31冒頭)、すなわち、「イエスを信じる者」は「死んでも『生きる』」(同上)、と言われています。

 

それは、『地上での』いのちを終えても、「イエスを信じる者」は「死んでも『生きる』」、ということです。

 

コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)1行目からの、「私たちの地上の幕屋の家がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」というのは、「私たち」が『地上での』いのちを終えても、「イエスを信じる者」には「神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」、という意味になると思います。

 

「神の下さる建物」というのは、「人の手によらない、天にある永遠の家」(上記冒頭1節)のことです。

 

そして、コリント人への手紙 第二5章2節(その30前半)には、「私たちは・・・この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」とあります。

 

「この天から与えられる住まい」というのは、「人の手によらない、天にある永遠の家」(上記冒頭1節)のことです。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(その32冒頭)には、「・・・そのこと(すなわち、天からの住まいを着ること)によって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』・・・」とあります。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』については、「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下、および「その31」をご参照ください。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、すなわち、「死んでも『生きる』」ので、「私たちは・・・この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」(Ⅱコリ5:2、その30前半)、ということになるのだと思います。

 

コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)の、「私たちの地上の幕屋の家がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています・・・」というのは、『地上での』いのちを終えても、「神の下さる建物」を着ることができる、ということを「私たちは知っています・・・」、ということだと思います。

 

そして、「神の下さる建物」を着る、すなわち、「人の手によらない、天にある永遠の家」を着ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ので、すなわち、「死んでも『生きる』」ので、「この天から与えられる住まいを着たいと望んでい(ます)る」、ということだと思います。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その29冒頭)2行目の、『神の幕屋』というのは、「その29」下から6段落目で述べたように、『天にあった』幕屋のことであると考えられます。

 

『神の幕屋』が『天にあった』幕屋であるとすると、コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)の、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」が思い浮かびます。

 

『神の幕屋』というのは、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」のことではないか、と現時点では考えています。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その29冒頭)2行目から、「・・・『神の幕屋』が人とともにある。『神は』彼ら(すなわち、人)とともに『住み』、彼らはその民となる。・・・」とあります。

 

神が人とともに『住む』ことができるのは、「『神の幕屋』が人とともにある」からであり、『人』が『神の幕屋』を着ているからではないかと思います。

 

『天にあった』と考えられる『神の幕屋』が、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」(Ⅱコリ5:1、上記冒頭)であるとすると、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着たい(Ⅱコリ5:2・4、その30)というのは、「『神の幕屋』を着たい」、ということになります。

 

その34、に続きます。