「神殿」について その30

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章1節(その27前半)に、次のように書かれています。
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1節
私たちの*住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 

* 直訳「地上の幕屋の家」

 

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1行目から、「私たちの(*住まいである地上の幕屋)地上の幕屋の家がこわれても、『神の下さる建物』があることを、私たちは知っています。・・・」とあります。

 

また2行目から、「・・・それは、『人の手によらない、天にある永遠の家』です。」とあります。

 

「それ」というのは、『神の下さる建物』のことです。

 

2行目からの引用は、「・・・『神の下さる建物』は、『人の手によらない、天にある永遠の家』です。」となります。

 

コリント人への手紙 第二5章2節(その27後半)に、次のように書かれています。
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2節
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
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「私たちは・・・『この天から与えられる住まい』を着たいと望んでいます。」とあります。

 

『この天から与えられる住まい』というのは、上記冒頭5章1節の、『神の下さる建物』のことであり、また『人の手によらない、天にある永遠の家』のことです。

 

「『この天から与えられる住まい』を着たい」(上記2節)は、『神の下さる建物』すなわち『人の手によらない、天にある永遠の家』を着たい、という意味になります。

 

そして、コリント人への手紙 第二5章4節(その27後半)には、2行目から、「・・・それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって『天からの住まいを着たい』からです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(その27後半)は、次のようになっています。
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4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
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3行目から、「・・・そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

「そのこと」というのは、「天からの住まいを着」ること、と考えられます。

 

「そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」は、「『天からの住まいを着る』ことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」、となります。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記)の第二文と第三文は、「『天からの住まいを着る』ことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうために」、「天からの住まいを着たい」、という文脈になると思います。

 

ところで、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

「いのちにのまれてしま」ったら、『いのちの中にいる』、ということになります。

 

『いのちの中にいる』ということは、『生きる』、ということではないでしょうか。

 

「私たち」(上記5章4節など)は『死ぬべきもの』です。

 

ヨハネ福音書14章6節に、次のように書かれています。
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6節
エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
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1行目から、『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。・・・』とあります。

 

「わたし」というのは、「イエス」のことです。

 

「わたしが道であり、真理であり、『いのち』なのです」は、「『イエス』が道であり、真理であり、『いのち』なのです」、となります。

 

『イエス』が『いのち』なのです。

 

その31、に続きます。