「神殿」について その31

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書11章25節と26節に、次のように書かれています。
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25節
エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26節
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
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25節1行目から、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。『いのち』です。・・・』とあります。

 

「わたし」というのは、「イエス」のことですから、「わたしは・・・『いのち』です」は、「『イエス』は・・・『いのち』です」、となります。

 

ヨハネ福音書14章6節(その30終わりのほう)に書かれていることと同じことが言われています。

 

上記冒頭11章25節2行目に、「・・・わたしを信じる者は、死んでも『生きる』のです。」とあり、26節1行目から、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して『死ぬことがありません』。・・・」とあります。

 

「いのちにのまれてしま」(Ⅱコリ5:4、その30中ほど)ったら、『いのちの中にいる』、ということになりますが、『イエス』が『いのち』であると言われているので、『いのちの中にいる』ということは、『イエスの中にいる』ということである、と言うことができると思います。

 

そして、「わたし(すなわち、イエス)を信じる者は、死んでも『生きる』のです」(25節2行目)と言われており、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して『死ぬことがありません』」(26節1行目から)と言われています。

 

つまり、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』(Ⅱコリ5:4、その30中ほど)というのは、『死ぬべきもの』であっても、イエスを信じるなら、「死んでも『生きる』」ということであり、また「決して『死ぬことがありません』」ということである、ということです。

 

「いのちにのまれてしま」ったら、『いのちの中にいる』、ということになります。

 

そして、『いのちの中にいる』というのは、『イエスの中にいる』ということを意味し、『イエスの中にいる』のは、『イエスを信じる者』だから、です。

 

『イエスを信じる者』であれば、「死んでも『生きる』」のであり、「決して『死ぬことがありません』」ということになる、のです。

 

聖書によると、そのようになる、ということです。

 

つまり、『いのちの中にいる』というのは、『生きる』ということである、ということです。「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下をご参照ください。

 

その32、に続きます。