「死」について その13

「死」について その5(2021-08-11)の後半で、わたしは、次のように述べました。
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「決して死を見ることが」ない(ヨハネ8:51)や、「決して死ぬことが」ない(ヨハネ11:26)のは、「わたしは、よみがえりで」あり、「いのちで」あるから、と、さしあたり言うことができると思います。

 

つまり、「わたしのことばを守る」者は、「よみがえる」のであり、よみがえって「いのち」を受けるので、「決して死を見ることがない」、もしくは、「決して死ぬことがない」、と、さしあたり言うことができる、ということです。
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その時わたしは、『さしあたり』という言葉を使いました。

 

そのとき述べたことは、「わたしのことばを守る」者が、『よみがえってから』のことです。

 

新改訳聖書』第3版のテサロニケ人への手紙 第一4章16節と17節に、次のように書かれています。
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16節
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17節
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
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16節に、「主は、・・・ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、」とあります。

 

この記述から、「キリストにある死者」は、「主(は)が、・・・天から下って来られ」てから「よみがえる」、と言うことができると思います。

 

わたしが、「死」について その5(2021-08-11)の後半で述べたことは、「よみがえってから」のことです。

 

それは、主が、天から下って来られてからのことです。

 

しかし、マタイの福音書16章28節(その1、後半)には、「・・・ここに立っている人々の中には、『人の子が御国とともに来るのを見るまで』は、決して死を味わわない人々がいます。」と書かれています。

 

『人の子が・・・来るのを見るまで』、とあります。

 

「人の子が来る」のは、主が天から下って来られるときか、もしくは、主が天から下って来られてからのことと思われます。

 

つまり、何が言いたいのかと言いますと、マタイの福音書16章28節(その1、後半)では、イエスが「ここに立っている人々」に語られている時点から、『人の子が・・・来るのを見るまで』決して死を味わわない人々がいる、ということです。

 

「ここに立っている人々」が「よみがえってから」のことではない、ということです。

 

『さしあたり』と言ったのは、そういうことです。

 

「決して死を味わわない人々がいる」というのは、「ここに立っている人々」が「よみがえってから」のことだけではなく、『人の子が・・・来るのを見るまで』、すなわち、「生きている」間と、「死んで」よみがえるまでの間も、ということです。

 

お分かりいただけるでしょうか。

 

その14、に続きます。