「神殿」について その32

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その30中ほど)に、次のように書かれています。
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4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
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2行目に、「・・・この幕屋を脱ぎたいと思う・・・」とあります。

 

「この幕屋を脱ぎたいと思う」のは、「この幕屋」を着ているからですが、「この幕屋を脱」ぐ、というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

ペテロの手紙 第二1章13節と14節に、次のように書かれています。
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13節
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
14節
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
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14節に、「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」とあります。

 

「それ」というのは、「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思ってい」ること、と言うことができると思います。

 

「これらのこと」というのは、ペテロの手紙 第二1章5節から7節までに書かれていることと考えられます。

 

すなわち、「(5節)・・・あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、(6節)知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、(7節)敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加え」ること、と考えられます。

 

「これらのことを思い起こさせる」(上記13節)は、「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることを思い起こさせる」、となります。

 

「これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせる」(上記13節)ことができるのは、「私」が地上で『生きている』間です。

 

上記1章13節1行目の、「私が『地上の幕屋』にいる間は」というのは、「私」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができます。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)の、「・・・この幕屋(すなわち、私たちの『地上の幕屋』)の中にいる間は・・・」も、「私たち」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができると思います。

 

ペテロの手紙 第二1章13節と14節は、「私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているから」(14節)、「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(13節)という文脈になると思います。

 

少し簡単にすると、「私が『この幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている』のを知っているから」(14節)、「『私が地上の幕屋にいる間は』、・・・あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(13節)となります。

 

『私が地上の幕屋にいる間は』というのが、「私」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができるので、「私が『この幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている』」というのは、「死期が迫っている」、ということを意味すると思います。

 

そうすると、『この幕屋を脱ぎ捨てる』、すなわち「『地上の幕屋』を脱ぎ捨てる」、というのは、地上で『死ぬ』ということである、と考えられます。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)の、「・・・この幕屋を脱ぎたいと思う・・・」の「この幕屋を脱」ぐ、も地上で『死ぬ』ということであると考えられます。

 

『死ぬ』というのは、この場合、『地上での』いのちを終える、ということです。

 

エスを信じる者は、「死んでも『生きる』」のであり、生きていてイエスを信じる者は、「決して『死ぬことが(ありません)ない』」のです。ヨハネ福音書11章25節と26節(いずれも、その31冒頭)をご参照ください。

 

その33、に続きます。