「神殿」について その36

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その34冒頭)に、次のように書かれています。
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4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
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3行目から、「・・・そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

「そのことによって」というのは、「天からの住まいを着」ることによって、のことと言うことができると思います。

 

「天からの住まいを着」ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、という流れになります。

 

そして、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、『生きる』ということであり、また『死ぬことがない』ということであると考えられます。

 

そうすると、もはや『死もない』(黙示録21:4、その35冒頭)というのは、「天からの住まいを着」たからではないか、と考えられます。

 

「天からの住まいを着」たというのは、「人の手によらない、『天にある永遠の家』」(Ⅱコリ5:1、その33冒頭)を着た、ということです。

 

もはや『死もない』という記述から、このときには、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』っていると考えられます。

 

つまり、このときには、『人』はすでに「天からの住まいを着」ている、ということです。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その35冒頭)2行目に、「・・・神の幕屋が人とともにある。・・・」とあります。

 

「その29」の下から6段落目で述べたように、『神の幕屋』は『天にあった』幕屋であると考えられます。

 

『神の幕屋』が『天にあった』幕屋であるとすると、それは、コリント人への手紙 第二5章1節(その33冒頭)の、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を思わせます。

 

『神の幕屋』というのは、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」のことではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

『神の幕屋』が「人の手によらない、『天にある』永遠の家」であるとすると、その「『天にある』永遠の家」を着た、は、『神の幕屋』を着た、ということになります。

 

「天からの住まいを着」ることによって、すなわち、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、ということが言われています。コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)をご参照ください。

 

「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着た、というのが、『神の幕屋』を着た、ということであるとすると、『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』った、と言うことができます。

 

『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』ったので、もはや『死もない』(黙示録21:4、その35冒頭)、のではないでしょうか。

 

言い換えると、『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、というみ言葉が成就したから、もはや『死もない』、ということではないでしょうか。

 

「神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3、その35冒頭)というのは、人が『神の幕屋を着ている』ということを意味しているのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

どのように思われますか。

 

その37、に続きます。