「神殿」について その35

新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録21章3節と4節(いずれも、その29冒頭)に、次のように書かれています。
***
3節
そのとき私は、御(み)座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、*

 

* 異本「また彼らの神となり」を加える

 

4節
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
***

 

4節1行目から、「・・・もはや『死もな・・・い』。・・・」とあります。

 

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(3節と4節)と言われた後に、「もはや『死もな・・・い』」、ということが言われています。

 

「もはや『死もなく』、悲しみ、叫び、苦しみもない」のはなぜか、と言いますと、「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(4節)、となります。

 

「以前のものが、もはや過ぎ去ったから」、「もはや『死もなく』、悲しみ、叫び、苦しみもない」、という文脈になります。

 

『死もなく』というのは、『死もない』ということですが、それは、どのようことを意味していると考えられるでしょうか。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』(Ⅱコリ5:4、その34冒頭)というみ言葉が成就した、ということを意味しているのではないでしょうか。

 

『死ぬべきもの』というのは「以前のもの」である、と言うことができると思います。

 

『死ぬべきもの』が「過ぎ去ったから」、もはや『死もない』、と言えるのではないでしょうか。

 

そのように言えると思います。

 

ヨハネ福音書11章25節と26節(いずれも、その31冒頭)に、次のように書かれています。
***
25節
エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26節
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
***

 

26節1行目から、「・・・生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・」とあります。

 

もはや『死もない』(黙示録21:4、上記冒頭)、と言われているのは、ヨハネの黙示録21章4節冒頭の「彼ら」についてのこと、と考えられます。

 

つまり、「彼ら」にはもはや『死もない』、ということです。

 

そして、21章4節冒頭の「彼ら」というのは、3節の3つの「彼ら」と同じで、3節2行目の、『人』のこと、と言うことができます。

 

もはや『死もない』、というのは、これらの『人』にはもはや『死もない』、ということだと思います。

 

そして、これらの『人』というのは、上記ヨハネ福音書11章26節の、『生きていてわたし(すなわち、イエス)を信じる者』のことではないか、と思われます。

 

さしあたり、そう思われます。

 

しかし、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』(11章25節)は、「死んでも生きる」と言われているので、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』についても、もはや『死もない』、ということになるのではないかと思われます。

 

「死んでも生きる」(上記ヨハネ11:25)と言われている者、また「決して死ぬことがありません」(上記ヨハネ11:26)と言われている者というのは、つまり、『永遠のいのち』を得た者のことではないでしょうか。

 

また、ヨハネの黙示録21章3節(上記冒頭)2行目からの、「神は彼ら(すなわち、人)とともに『住み』」、という言葉から、この場合の『人』というのは、『キリストにある者』のことであり、『御霊(みたま)による者』のことであると考えられます。エペソ人への手紙2章22節(その2冒頭、その23冒頭)をご参照ください。

 

『キリストにある者』というのは、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』(上記ヨハネ11:25)のことであり、『生きていてわたし(すなわち、イエス)を信じる者』(上記ヨハネ11:26)のことである、と言うことができると思います。

 

そして、『イエスを信じる者』には、『御霊(みたま)』が与えられます。

 

その36、に続きます。