「死」について その5

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書11章25節から27節までに、次のように書かれています。
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25節
エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26節
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27節
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に*来られる神の子**キリストである、と信じております。」

 

* 別訳「きたるべきかた」(「メシヤ」の称号)
** すなわち「メシヤ」

 

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25節に、「・・・わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあり、26節に、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・」とあります。

 

ヨハネ福音書8章51節(その4、前半)の「決して死を見ることがありません」というのは、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(上記26節)、のことだと思いますが、いかがでしょうか。

 

ヨハネ福音書8章51節(その4、前半)には、「・・・だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」とあります。

 

この中の、「わたしのことばを守る」者というのは、「わたしを信じる者」(上記25節)のこと、と言うことができると思います。

 

また、「生きていてわたしを信じる者」(上記26節)、というのも、「わたしのことばを守る」者のこと、と言うことができると思います。

 

上記25節に、「・・・わたしは、よみがえりです。いのちです。・・・」とあります。

 

「決して死を見ることが」ない(ヨハネ8:51)や、「決して死ぬことが」ない(ヨハネ11:26)のは、「わたしは、よみがえりで」あり、「いのちで」あるから、と、さしあたり言うことができると思います。

 

つまり、「わたしのことばを守る」者は、「よみがえる」のであり、よみがえって「いのち」を受けるので、「決して死を見ることがない」、もしくは、「決して死ぬことがない」、と、さしあたり言うことができる、ということです。

 

マタイの福音書16章28節(その1、後半)の、「決して死を味わわない」(マタイ16:28)というのも、そうではないでしょうか。

 

その6、に続きます。