「死」について その6

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書11章25節(その5、冒頭)の「・・・わたしを信じる者・・・」や、同章26節の、「・・・生きていてわたしを信じる者・・・」というのは、ヨハネの福音書8章51節(その4、前半)の「・・・わたしのことばを守る・・・」者のこと、と言うことができると思います。

 

「わたしを信じる者」や「生きていてわたしを信じる者」というのは、「わたしのことばを守る者」のことであり、その者は「決して死を見ること」はなく(ヨハネ8:51)、また「決して死を味わうことがない」(同8:52)、と、さしあたり言うことができると思います。

 

新改訳聖書』第3版の使徒の働き2章24節に、次のように書かれています。
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2章24節
しかし神は、この方を死の*苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

 

* 直訳「陣痛」

 

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1行目から、「・・・神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。・・・」とあります。

 

続けて、「この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」とあります。

 

「この方が死につながれていることなど、ありえないから」、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」という文脈になります。

 

「この方が死につながれている」、というのは、どういうことでしょうか。

 

十字架の上での死につながれている、ということでしょうか。

 

もしも、十字架の上での死につながれている、ということであるとすると、どういうことになるでしょうか。

 

文字通りのことだとすると、十字架につけられたままでいる、ということになります。

 

そうすると、「この方が死につながれている」というのは、そのようなことではない、ということになります。

 

では、文字通りのことではなく、何かのたとえでしょうか。

 

十字架の上での死につながれている、ということが、何かのたとえだとすると、何のたとえであると考えられるでしょうか。

 

今のところ見つかりません。

 

そこで、「この方が死につながれている」、というのは、十字架の上での死につながれている、ということではない、という場合について考えてみます。

 

その7、に続きます。