「死」について その2

新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙2章9節(その1、冒頭)2行目から、「・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。・・・」とあります。

 

「死の苦しみ」というのは、例えば、十字架の上での苦しみのこと、と考えることができると思います。

 

しかし3行目からの、「その死は、・・・すべての人のために『味わわれた』ものです」、と言う場合はどうでしょうか。

 

この場合の「死」は、十字架の上での「死」と考えてよいでしょうか。

 

マタイの福音書16章28節(その1、後半)の「・・・決して死を味わわない人々がいます」の『味わわない』は、『味わわれた』と同じような意味で用いられていると思われます。

 

「死の苦しみ」(ヘブル2:9、2行目)が十字架の上での苦しみだとすると、3行目に「『その』死は」とあるので、『味わわれた』も、十字架の上での「死」を『味わわれた』、ということになると思います。

 

そうすると、マタイの福音書16章28節(その1、後半)の「死を『味わわない』」というのは、イエスが十字架の上で『味わわれた』ような死を『味わわない』、という意味になります。

 

「ここに立っている人々」(マタイ16:28)の中のある人たちは、です。

 

「ここに立っている人々」の中のある人たちが、決して死を『味わわない』というのは、イエスが十字架の上で『味わわれた』ような死を決して『味わわない』ということであると考えてよいでしょうか。

 

もしそうであるとすると、そのような死を、すなわち、イエスが十字架の上で『味わわれた』ような死を、『味わわない』というのは、「ここに立っている人々」の中のある人たちだけではなく、多くの人について言える、ということにならないでしょうか。

 

エスが十字架の上で『味わわれた』ような死を『味わう』人というのは、一般的に死ぬ人に比べて、そんなに多いとは思われないからです。

 

一般的に死ぬ人は、イエスが十字架の上で『味わわれた』ような死を『味わう』ことはない、と言うことができると思います。

 

仮に、「死の苦しみ」(ヘブル2:9、2行目)の「死」が、十字架の上での「死」だとしても、「その死は、・・・すべての人のために味わわれたものです」(同、3行目から)、と言う場合の「死」は、それだけではない、ということになると思います。

 

いかがでしょうか。

 

その3、に続きます。