「苦しみ」について その7

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書27章39節から44節までに、次のように書かれています。
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39節
道を行(い)く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40節
言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
41節
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
42節
「彼は他人を救ったが、*自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

 

* あるいは「自分は救えないのか」

 

43節
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44節
エスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
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41節から43節までに、『(41節)同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。(42節)「彼は他人を救ったが、*自分は救えない(あるいは、自分は救えないのか)。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(43節)彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」』とあります。

 

41節に、「・・・祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。」とあります。

 

祭司長たち、律法学者、長老たちはイエスをあざけった、ということが書かれています。

 

「祭司長たち『も』」(41節)、とあります。

 

これは、「道を行(い)く人々」が頭を振りながらイエスをののしって言ったことを受けての言葉である、と言うことができると思います。

 

つまり、「道を行(い)く人々」『も』、「祭司長たち『も』」、こぞってイエスを、ののしったり、あざけったりした、ということです。

 

「道を行(い)く人々」というのは、主(おも)に「ユダヤ人」であると思われます。

 

しかし、中には、回りの国々から来た人もいたかも知れません。

 

彼らがイエスをののしったり、あざけったりしたことも、「多くの苦しみを受け」(マタイ16:21、その3前半おびその4前半)ることの一つである、と言うことができると思います。「その5」の6段落目以下をご参照ください。

 

その8、に続きます。