「苦しみ」について その8

聖書には、イエスが「苦しみを受ける」(ルカ22:15、マタイ16:21)、ということが書かれています。

 

エスが「苦しみを受ける」と言う場合、それは、ユダヤ人の『長老、祭司長、律法学者たちから』(マタイ16:21、その4前半)受けるだけではなく、『異邦人』(マタイ20:19、その4冒頭)からも受ける、と言うことができます。

 

『長老、祭司長、律法学者たちから』苦しみを受けることについては、「その5」と「その7」で述べました。

 

また、『異邦人』から苦しみを受けることについては、「その6」で述べました。

 

そして、イエスは苦しみを『受けた』、と言うことができると思います。

 


わたしは以前、「クリスチャンに聞くが、愛とは何だ?答えてみろ」という、YAHOO!知恵袋の質問に対して、「loveenemy」というID(アイディー)で、回答したことがあります。

 

この質問は現在見ることができません。「お探しのページは見つかりませんでした」、と出ます。

 

この質問に対する2022年8月18日6時00分の回答で、わたしは次のように述べました。

 

***
復讐する際に、悪口を言ったりすることがあると考えられるからです。

 

つまり、罪を犯すことがあるので、それを避けるためです。

 

だから、イエスが十字架のあるところまで歩いたときに、ユダヤ人によって受けた仕打ちに対して何も言い返さなかったように、悪口を言われても、言い返したりしないのです。

 

その仕打ちの中には、つばを吐きかけられるものもありました。

 

**********さんは、つばを吐きかけられて、黙っていられますか。

 

それに耐えることはできますか。

 

エスは耐えたのです。

 

・・・
***

 

3段落目と4段落目で、
***
だから、イエスが十字架のあるところまで歩いたときに、ユダヤ人によって受けた仕打ちに対して何も言い返さなかったように、悪口を言われても、言い返したりしないのです。

 

その仕打ちの中には、つばを吐きかけられるものもありました。
***
と述べました。

 

この時わたしはこれを、「記憶」に基づいて述べました。

 

「その仕打ちの中には、つばを吐きかけられるものもありました」、とありますが、「その仕打ち」というのは、その前の段落の、「イエスが『十字架のあるところまで歩いたとき』に、ユダヤ人によって受けた仕打ち」のこと、と受け取られると思います。

 

しかし、これはわたしの「記憶違い」でした。

 

エスが、ユダヤ人によってつばを吐きかけられたのは、『十字架のあるところまで歩いたとき』のことではなく、『大祭司カヤパのところ』でのことでした。

 

ユダヤ人によってつばを吐きかけられたことについては、マタイの福音書26章67節に書かれています。「その5」中ほどに、その引用文があります。

 

26章57節から67節までを読むと、状況が分かるかと思います。

 

ローマ人によっても、つばを吐きかけられたことが書かれています。マタイの福音書27章30節です。「その6」の中ほどか、もしくは、後半にその引用文があります。

 

ユダヤ人によって』つばを吐きかけられたことは、マタイの福音書26章67節に書かれており、それは『大祭司カヤパのところ』でのことです。

 

人間の「記憶」は当てにならないと、つくづく思います。

 

たいへん申し訳ありませんでした。