「苦しみ」について その4

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書20章17節から19節まで(その1中ほど)に、次のように書かれています。
***
17節
さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
18節
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行(い)きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
19節
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
***

 

18節と19節に書かれていることは、マタイの福音書16章21節(その3前半)に書かれていることと似ています。

 

マタイの福音書16章21節(その3前半)は、次のようになっています。
***
21節
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
***

 

20章(上記冒頭)の、「(18節)・・・人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。(19節)そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」の部分が、16章21節の、「・・・イエス・キリストは、・・・長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない・・・」と似ています。

 

16章21節の、「多くの苦しみを受け、殺され」は、20章(上記冒頭)の、「(18節)・・・人の子を死刑に定めます。(19節)そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。・・・」に当たる、と言うことができると思います。

 

また、16章21節の、「三日目によみがえらなければならない」は、20章19節(上記冒頭)の、「三日目によみがえります」に当たる、と言うことができます。

 

このように、①マタイの福音書20章18節と19節(いずれも、上記冒頭)に書かれていることは、②同書16章21節(その3前半)に書かれていることと似ています。

 

このことから、①と②は同じときのこと、もしくは、ほぼ同じときのことではないか、と考えられます。

 

同じときのことであるとすると、「多くの苦しみ」というのは、エスが「死刑に定め」られること、また、「あざけ」られ「むち打」たれ「十字架につけ」られるため「異邦人に引き渡」されること、であると言うことができると思います。

 

マタイの福音書16章21節(上記)には、「・・・イエスキリストは、(ご自分が)エルサレムに行って、『長老、祭司長、律法学者たちから』多くの苦しみを受け・・・なければならない」、とあります。

 

これに対して、同書20章18節と19節(いずれも、上記冒頭)には、「(18節)・・・人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。(19節)そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。・・・」とあります。

 

18節から19節にかけては、まず、「彼らは・・・引き渡します。」となります。

 

だれにか、と言うと、「異邦人に」、となります。

 

何のためにか、と言うと、「あざけり、むち打ち、十字架につけるため」に、となります。

 

つまり、20章19節の、「あざけり、むち打ち、十字架につける」は、「彼ら」すなわち「祭司長、律法学者たち」のすることではなく、「異邦人」のすることである、ということです。

 

実際「十字架につける」のは、「祭司長、律法学者たち」ではなく、『ローマ人』、すなわち、『異邦人』です。

 

エスは、「異邦人」、すなわち、「ローマ人」に引き渡されたあとに、十字架につけられます。

 

その5、に続きます。