『新改訳聖書』第3版のマタイの福音書20章19節(その4冒頭)の、「・・・あざけり、むち打ち、十字架につける・・・」というのは、「彼ら」すなわち「祭司長、律法学者たち」(マタイ20:18、その4冒頭)がすることではなく、「異邦人」がすることである、と言うことができると思います。
「あざけり、むち打ち、十字架につける『ため』、異邦人に引き渡します」、とあるからです。
つまり、異邦人に引き渡すのは、「あざけり、むち打ち、十字架につける『ため』」である、ということですから、「あざけり、むち打ち、十字架につける」のは異邦人である、ということになり、そのように読むことができると思います。
異邦人に引き渡して、「祭司長、律法学者たち」が、「あざけり、むち打ち、十字架につける」、ということではないと思われます。
「あざけり、むち打ち、十字架につける」のが、「祭司長、律法学者たち」(マタイ20:18、その4冒頭)である、と読む場合は、「祭司長、律法学者たち」が人の子を異邦人に引き渡して、「あざけり、むち打ち、十字架につけ」『させる』、あるいは、「あざけり、むち打ち、十字架につけ」るように『させる』、という意味になると思います。
マタイの福音書16章21節(その3前半、及びその4前半)には、「・・・『長老、祭司長、律法学者たちから』多くの苦しみを受け・・・なければならない・・・」と書かれています。
『新改訳聖書』第3版のマタイの福音書26章65節から68節までに、次のように書かれています。
***
65節
すると、大祭司は、自分の*衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
* あるいは「着物」
66節
どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。
67節
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを*平手で打って、
* あるいは「棒で打って」
68節
こう言った。「当ててみろ。*キリスト。あなたを打ったのはだれか。」
* すなわち「メシヤ」
***
66節から68節までに、『(66節)・・・彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。(67節)そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを*平手で打って(あるいは、棒で打って)、(68節)こう言った。「当ててみろ。*キリスト(すなわち、メシヤ)。あなたを打ったのはだれか。」』とあります。
「彼ら」というのは、26章59節の、「祭司長たちと全*議会(あるいは、サンヘドリン)」や、同章57節の、「律法学者、長老たち」などのことと思われます。
つまり、66節から68節までの節では、イエスは『長老、祭司長、律法学者たちから』(マタイ16:21、その4前半)苦しみを受けた、ということです。
もし、例えばあなたが何も罪を犯していないのに、裁判にかけられ、「あなたは死刑に当たる」と言われたら、どのように思うでしょうか。
恐怖におののくのではないでしょうか。
また、「顔につばきをかけ」られ、「こぶしでなぐりつけ」られ、「平手で(あるいは、棒で)打」たれたら、あなたはどのように思うでしょうか。
屈辱を感じるのではないでしょうか。
「当ててみろ、あなたを打ったのはだれか」などと、からかわれたら、どのように思うでしょうか。
腹が立つのではないでしょうか。
恐怖や屈辱やからかいのゆえに、「苦しむ」ということにならないでしょうか。
マタイの福音書26章66節から68節まで(上記)に書かれていることは、『多くの苦しみ』を受けることのうちの一つである、と言うことができると思います。
そしてそれは、イエスが異邦人に引き渡される『前』のことです。
その6、に続きます。