「苦しみ」について その3

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書26章20節から57節までの記述より、「人の子」すなわち「イエス」が、「祭司長、律法学者たちに引き渡される」(マタイ20:18)のは、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』である、と言うことができます。「その1」と「その2」をご参照ください。

 

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書16章21節に、次のように書かれています。
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21節
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
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1行目から、「・・・イエス・キリストは・・・エルサレム行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け・・・なければならない・・・」とあります。

 

エルサレムに行って」とあることから、この時、すなわち、21節の時点では、イエスはまだエルサレムに行っていない、と言うことができます。

 

マタイの福音書16章13節の記述から、この時イエスと弟子たちはピリポ・カイザリヤにいたと思われます。

 

イエス・キリストは・・・『エルサレムに行って』、・・・多くの苦しみを受け・・・なければならない」(上記16章21節)とあるので、イエスが苦しみを受けるのは、『エルサレムに行って』からのことである、と言うことができます。

 

そして、ルカの福音書22章15節(その1冒頭)の記述から、エスが苦しみを受けるのは、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』である、と言うことができます。

 

「苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(ルカ22:15、その1冒頭)、とイエスは『食卓』で言われています。

 

この『食卓』は、ルカの福音書22章13節の記述から、『過越(すぎこし)の食事』の食卓であることが分かります。

 

マタイの福音書26章17節から19節まで(その1後半)の記述より、「過越(すぎこし)の食事」は『エルサレム』でされる、と言うことができると思います。

 

26章18節に、「『都』に入って、・・・」とあります。『都』というのは『エルサレム』のこと、と言うことができます。

 

まとめると、イエスが苦しみを受けるのは、『エルサレム』に入ってから『エルサレム』でされる、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』である、となります。

 

ちなみに、イエスは、ご自分が「苦しみを受ける」ということを、『前もって』語られています。

 

エスは、「苦しみを受ける」ということを、『食卓』で、すなわち、『過越(すぎこし)の食事』の食卓で言われています。

 

実際に「苦しみを受ける」のは、「長老、祭司長、律法学者たちから」(マタイ16:21、上記)です。

 

つまり、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』に「引き渡され」てからです。

 

「過越(すぎこし)の食事」の『あと』「引き渡され」てからのことを、『過越(すぎこし)の食事』の食卓で、つまり『前もって』言われているのです。

 

それは、「苦しみを受ける」ことが、すでに定められていることだからです。

 

その4、に続きます。