「苦しみ」について その1

新改訳聖書』第3版のルカの福音書22章14節と15節に、次のように書かれています。
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14節
さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15節
エスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
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15節に、「・・・わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」とあります。

 

エスは、「苦しみを受ける」ということを、過越(すぎこし)の食事の席で、弟子たちに語られています。

 

そして、イエスが「苦しみを受ける」のは、15節の記述より、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』であることが分かります。

 

「苦しみを受ける『前に』、・・・この過越(すぎこし)の食事をする・・・」(15節)、とあるからです。

 

マタイの福音書20章17節から19節までに、次のように書かれています。
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17節
さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
18節
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行(い)きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
19節
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
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18節2行目から、「・・・人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。・・・」とあります。

 

「人の子」すなわち「イエス」が、「祭司長、律法学者たちに引き渡される」のは、「過越(すぎこし)の食事」の『あと』である、と言うことができます。

 

例えば、マタイの福音書で言いますと、26章17節から19節までに、弟子たちが「過越(すぎこし)の食事」の用意をしたということ、また、26章20節に、「イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた」、ということが書かれています。

 

マタイの福音書26章17節から20節までは、次のようになっています。
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17節
さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越(すぎこし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
18節
エスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越(すぎこし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
19節
そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越(すぎこし)の食事の用意をした。
20節
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
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その2、に続きます。