『新改訳聖書』第3版のルカの福音書22章1節に、次のように書かれています。
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1節
さて、過越(すぎこし)の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。
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この記述から、「種なしパンの祝い」というのは、「過越(すぎこし)の祭り」のことであることが分かります。
マタイの福音書26章17節に、次のように書かれています。
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17節
さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越(すぎこし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
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1行目に、「・・・種なしパンの祝いの第一日に、・・・」とあります。
ルカの福音書22章1節(上記冒頭)の記述から、「種なしパンの祝いの第一日」は、「過越(すぎこし)の祭りの第一日」である、と言うことができます。
また、マタイの福音書26章17節(上記)2行目から、「・・・過越(すぎこし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」とあります。
「種なしパンの祝いの第一日」、すなわち、「過越(すぎこし)の祭りの第一日」に、「過越(すぎこし)の食事」の用意をすることについて書かれています。
つまり、26章17節以降に書かれていることは、過越(すぎこし)の祭りの日のことである、ということです。
それに対して、26章16節以前に書かれていることは、過越(すぎこし)の祭りの『前』のことであり、おそらく、「二日たつと過越(すぎこし)の祭りにな」(マタイ26:2)るときのことではないか、と思われます。
16節以前に書かれていることが、過越(すぎこし)の祭りの『前』のことであるとすると、マタイの福音書26章15節の、「彼(すなわち、イエス)をあなたがたに売るとしたら」とユダが言ったのは、「過越(すぎこし)の祭りの『前』」のことになります。
ユダが、「彼(すなわち、イエス)をあなたがたに売るとしたら」(26章15節)と言ったときには、「ユダの心に、イエスを売ろうとする思い」(ヨハネ13:2、その5冒頭)があった、と言うことができると思います。
そして、「ユダの心に、イエスを売ろうとする思い」(ヨハネ13:2、その5冒頭)があったのは、「悪魔(は)がすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」(同)から、ではないでしょうか。
その7、に続きます。