「神の子」について その2

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書3章16節と17節に、次のように書かれています。
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16節
こうして、イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17節
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
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17節1行目から、「・・・これは、わたしの愛する子・・・」とあります。

 

使徒の働き13章33節(その1冒頭)2行目からの、「・・・あなたは、わたしの子・・・」とよく似ています。

 

しかし、状況は違います。

 

使徒の働き13章33節(その1冒頭)のことばは、イエスよみがえられたときのことばです。

 

これに対しマタイの福音書3章17節(上記冒頭)のことばは、エスが「バプテスマを受け」(同章16節)られたときのことばです。

 

そのときイエスは、「天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧にな」(同16節)りました。

 

『神の御霊(みたま)』を受けた、と言うことができるのではないでしょうか。

 

ローマ人への手紙8章15節に、次のように書かれています。
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15節
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊(みたま)を受けたのです。私たちは御霊(みたま)によって、「アバ、父」と呼びます。
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1行目から、「あなたがたは・・・子としてくださる御霊(みたま)を受けたのです。・・・」とあります。

 

『子としてくださる御霊(みたま)』、とあります。

 

この言葉から、『御霊(みたま)』は「あなたがた」を『子としてくださる』、と言うことができると思います。

 

ローマ人への手紙8章14節に、次のように書かれています。
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14節
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
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『子としてくださる』(15節、上記)というのは、『神の子どもとしてくださる』(14節)、ということである、と言うことができると思います。

 

マタイの福音書3章17節(上記冒頭)の、「・・・これは、わたしの愛する子・・・」というのは、『神の御霊(みたま)』を受けたことによって、イエスは『神の子ども』とされるようになった、ということではないでしょうか。

 

このときイエスは、『人』または『人の子』です。

 

つまり、『人』または『人の子』であるイエスが『神の子ども』とされるようになった、ということです。

 

これと同じように、ローマ人への手紙8章15節(上記)の、「あなたがた」も、『神の御霊(みたま)』を受けたことによって、『神の子ども』とされるようになった、ということではないでしょうか。

 

その3、に続きます。