「霊」について その3

新改訳聖書』第3版のエペソ人への手紙2章3節(その1とその2の冒頭)2行目に、「・・・肉と心の望むままを行い、・・・」とあります。

 

「肉・・・の望むまま」(3節)というのは、「肉の思いのまま」、ということではないでしょうか。

 

もしそうだとすると、『あなたがた』や『私たち』は、死んでいた、と言うことができると思います。

 

『あなたがた』については、「死んでいた」(2章1節、その1とその2の冒頭)と書かれていますが、「私たち」についても、『私たち』は「死んでいた」、と言うことができると思います。

 

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章6節に、次のように書かれています。
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6節
肉の思いは死であり、御霊(みたま)による思いは、いのちと平安です。
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1行目から、「肉の思いは死で・・・す。」とあります。

 

このことばから、「肉の思いのまま」を行なうなら、『死ぬ』のであり、「肉の思いのまま」を行なった者は、『死んでいる』のである、と言うことができると思います。

 

この場合の『死ぬ』や『死んでいる』は、言うまでもなく、体の機能が停止するや、停止している、いわゆる、「心肺停止」による死、という意味での死ではありません。

 

『神に対して』、「死ぬ」や「死んでいる」、ということです。

 

「今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでい・・・た」(エペソ2:2)というのは、『神』に従って歩んでいたのではなかった、ということを意味すると思います。

 

『神』に従って歩んでいたら、すなわち、『神』に「従順」であったなら、御霊(みたま)による思いが心の中にあったと考えられるので、「いのちと平安」(ローマ8:6、上記)の中にいた、と言うことができると思います。

 

つまり、『神』に対しては『生きている』、ということです。

 

『神』に対して『不従順』であるなら、『死ぬ』や『死んでいる』、ということになるのだと思います。

 

『神』に対して『不従順』であると、神のことばを守らないということになり、神のことばに反抗するということになります。

 

それはつまり、律法に違反するということを意味する、と言うことができると思います。

 

律法に違反するということは、『罪を犯す』、ということです。

 

エペソ人への手紙2章3節(その1とその2の冒頭)に、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあっ・・・た。」とあります。

 

「私たち『も』みな」とあるので、『あなたがたも』そうだった、と言うことができると思います。

 

私たち『も』、『あなたがたも』、かつては不従順の子らの中にあった、ということになります。

 

そして、自分の罪過と罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいたので、『死んでいた』(2章1節、その1とその2の冒頭)、ということだと思います。

 

いかがでしょうか。