「肉」について その6

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙6章23節に、次のように書かれています。
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23節
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
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23節1行目の、「罪から来る報酬は死です・・・」ということからすると、例えば、現実に姦淫の罪を犯すと「死」ということになる、と思いますが、それ以前に『心の中』で姦淫のことを『考えた』ときに、すでに、姦淫の罪を犯した、ということになり、「死」ということになるのではないでしょうか。

 

そして、姦淫が『人の心の中』にある間は、それは『肉の思いである、と言うことができると思います。

 

『肉の行い』である「姦淫」の罪から来る報酬は死です、と言うことができると思いますが、「姦淫」という『肉の行い』は、「姦淫」のことを『考える』という、『心の中』の『肉の思いから「出て来る」(マルコ7:21)、ということではないでしょうか。

 

「罪から来る報酬は死です」、という言葉から、罪である「姦淫」から来る報酬は死です、と言うことができると思います。

 

それは、現実に姦淫を犯したときの罪だけではなく、『人の心の中』にあるときに、すでに犯された姦淫の罪についても言えるのではないでしょうか。

 

『心の中』で「姦淫」のことを考える、というのは、言い換えると、『肉の思い』ということになると思います。

 

わたしは「その4」の、下から4段落目で、
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・・・「肉の思いは死で・・・す」、というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。
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と述べました。

 

「肉の思いは死です」、というのは、『心の中』で「姦淫」など、ガラテヤ人への手紙5章19節から21節まで(その2、後半)に書かれていること、および、マルコの福音書7章21節と22節(その3、冒頭)に書かれていることなどを考えることは死です、ということではないでしょうか。

 

どのように思われるでしょうか。