「律法」について その5

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙7章19節(その3、冒頭)に続いて、同章20節と21節に、次のように書かれています。
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20節
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行(おこな)っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21節
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
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続けて同章22節と23節に、次のように書かれています。
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22節
すなわち、私は、内なる人*としては、神の律法を喜んでいるのに、

 

* 別訳「に関しては」

 

23節
私の*からだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 

* 別訳「肢体」

 

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22節から23節にかけて、「(22節)・・・私は、内なる人としては(別訳、に関しては)、神の律法を喜んでいるのに、(23節)私のからだ(別訳、肢体)の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」とあります。

 

「心の律法」(23節)は「神の律法」(22節)に当たり、「私のからだ(別訳、肢体)の中(には)の異なった律法」(23節)というのは、「からだの中にある罪の律法」(同)に当たる、と言うことができると思います。

 

「神の律法」(22節)が「むさぼってはならない」(ローマ7:7)であるとすると、「罪の律法」(23節)は「むさぼりなさい」、になると思います。

 

「私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしている」(23節)、ということは、「私」は「罪の律法」に心を奪われている、というようなことだと思います。

 

あるいは、「私」は「罪の律法」に従って行動している、というようなことだと思います。

 

「私の『肉』のうちに善が住んでいない」(ローマ7:18、その3冒頭)とあり、「私に悪が宿っている」(21節、上記)とあります。

 

人のからだは『肉』であって、その『肉』には「善が住んでいない」、そして「悪が宿っている」ために、「善をしたいという願い」(ローマ7:18、その3冒頭)があっても、それを実行することはなく、「したくない悪を行(おこな)って」(ローマ7:19、その3冒頭)しまう、ということではないでしょうか。

 

悪意のある人であれば、悪を行なうのは当然ですが、ローマ人への手紙7章の「私」は、「善をしたいという願い」(ローマ7:18、その3冒頭)があるのに、悪を行なってしまう、ということが言われています。

 

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ」(ローマ13:9、レビ19:18)という神の律法を知っているのに、それができないのは、人のからだが『肉』であるから、と言うことができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

どのように思われますか。