「律法」について その3

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙7章18節と19節に、次のように書かれています。
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18節
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19節
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行(おこな)っています。
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18節2行目から、「・・・私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」とあり、19節に、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行(おこな)っています。」とあります。

 

パウロの場合、例えば、使徒の働き22章3節と4節に、次のように書かれています。
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3節
「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法*について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

 

* あるいは「(律法)の厳格なしかたに従って」

 

4節
私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
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3節に、「私は・・・私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、・・・神に対して熱心な者でした。」とあります。

 

パウロは、「私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け」たので、その律法を守ろうとしたと思われるのですが、パウロにとっては、その律法を守ろうとすることが、「善をしたいという願い」(ローマ7:18)になるのではないか、と思われるのですが、いかがでしょうか。

 

パウロは「神に対して熱心な者」(使徒22:3)であるがゆえに、「私たちの先祖の律法」を守ろうとすることが、パウロにとっては、『善』であるのではないかと思われます。

 

「善をしたいという願い」(ローマ7:18)があるのに、つまり、「私たちの先祖の律法」を守ろうとしているのに、「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせ」る、ということをしてしまう、のではないかと思われます。

 

パウロにとっては、「この道」が『悪』である、ということなのではないでしょうか。

 

「この道」というのは、イエスの教えなどのこと、と言うことができると思います。

 

なぜ「この道」を迫害したのか、については、使徒の働き7章51節から53節まで等を参照されるとよいのではないかと思います。ステパノがそれらの節に書かれているようなことを言ったからだと思われます。

 

また、イエスの教えは、「私たちの先祖の律法」に反していると考えたからではないか、と思われます。

 

その4、に続きます。