「罪」について その4

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙6章8節と9節に、次のように書かれています。
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8節
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9節
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
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6章9節(上記)から10節(その3後半)にかけての文脈は、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだから」(6章10節)、「キリストは・・・もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しない」(同章9節)、というようになると思います。

 

キリストは「罪に対して死なれた」(10節)とあり、「神に対して生きておられる」(同)、とあります。

 

キリストは「罪に対して死なれた」(10節)ので、「神に対して生きておられる」、と考えることができるのではないでしょうか。

 

このように考えることができるとすると、「罪に対して『死んでいない』」者は、「『神に対して』死んでいる」、ということになると思います。

 

「・・・罪過と罪との中に・・・」(エペソ2:1)いる者は、「罪に対して『死んでいない』」者である、と考えることができると思います。

 

また、罪の中にいる者は、「罪に対して『死んでいない』」者であり、「『神に対して』死んでいる」者である、と考えることができると思います。

 

「自分の罪過と罪との中に死んでいた」というのは、どのような意味であると考えられるのか(その3中ほど)、と言いますと、自分の罪過と罪の中にいる者は、「罪に対して『死んでいない』」者であり、かつて、自分の罪過と罪の中にいた者は、「『神に対して』死んでいた」、という意味であると考えられると思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。