「律法」について その4

新改訳聖書』第3版の使徒の働き22章4節に、次のように書かれています。
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4節
私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
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「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」とあります。

 

「この道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせ」る、というのは、『善』と言えるでしょうか。

 

答えは簡単です。「言えない」、です。

 

パウロは、「この道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせ」る、という『悪』を行なっている、ということです。

 

つまり、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行(おこな)ってい」(ローマ7:19、その3冒頭)る、ということです。

 

「自分でしたいと思う善」というのは、「私たちの先祖の律法」を守ろうとすることと考えられるのですが、その律法を守ろうとするなら、「この道」の者を愛するはずです。

 

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ」(ローマ13:9)という律法があるからです。

 

「私たちの先祖の律法」を守ろうとするなら、「この道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせ」る、ということはできないと思います。

 

「私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け」(使徒22:3)たのであれば、パウロは、「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ」(ローマ13:9)という律法を、知っていたと思われます。この律法については、レビ記9章18節をご参照ください。

 

知っているのに、それができない、ということではないでしょうか。

 

なぜでしょうか。

 

「私の肉のうちに善が住んでいない」(ローマ7:18、その3冒頭)から、ではないでしょうか。

 

その5、に続きます。