「神の子」について その3

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章23節に、次のように書かれています。
***
23節
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
***

 

1行目から、「・・・御霊の初穂をいただいている私たち自身も、・・・子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」とあります。

 

「待ち望んでいます」とあるので、「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること」は、この手紙が書かれた時点では、まだ実現していない、と言うことができます。

 

「子にしていただくこと」は、「私たちのからだの贖われる」ときに実現する、ということだと思われます。

 

使徒の働き13章34節に、次のように書かれています。
***
34節
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。
***

 

1行目から、「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされた・・・」とあります。

 

「もはや朽ちることのない方とされた」ことによって、「あなたは、わたしの子」(使徒13:33、その1冒頭)になった、ということだと思います。

 

そして、「朽ちることのない」からだとされることが、「からだ(の)が贖われる」(ローマ8:23、上記冒頭)、ということではないかと思われます。

 

つまり、「私たちのからだ(の)が贖われる」のは、「私たち」がよみがえったときに起こるのではないか、ということです。

 

「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること」(ローマ8:23、上記冒頭)は、ローマ人への手紙が書かれた時点では、まだ実現していない、と言うことができます。

 

それは、「私たち」がよみがえったときに実現するのではないか、と思われます。

 

そのとき、すなわち、よみがえったとき、「私たちのからだ」は「贖われ」、「私たち」は「子にしていただく」ことになる、のではないかと思われます。

 

つまり、そのとき「私たち」は『神の子』になる、ということです。

 

このことの「初め」となられたのが、「イエス」であると考えられます。

 

その4、に続きます。