『新改訳聖書』第3版のヨハネの福音書13章2節(その5冒頭)に、次のように書かれています。
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2節
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
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「夕食の間のことであった。」とあり、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた・・・」と続くことから、一見すると、悪魔がユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れたのは、「夕食の間」でのことのように思えます。
しかし、「『すでに』・・・入れていた」(13章2節、上記冒頭)という言葉からすると、「夕食の『前』」のことではないか、という考えが浮かびます。
「夕食」のときには、「『すでに』・・・イエスを売ろうとする思いを入れていた」(上記冒頭2節)、と読むことができるからです。
つまり、「夕食」の『前』に、「イエスを売ろうとする思いを入れていた」、と解釈することができるのです。
どのように考えたらよいのでしょうか。「夕食の『間』」のことなのでしょうか、それとも、「夕食」の『前』のことなのでしょうか。
これまで見て来たように、悪魔がユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れたのは、「過越(すぎこし)の祭りの『前』」のことである、と考えられます。「その5」と「その6」をご参照ください。
悪魔がユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れたのが、上記冒頭の「夕食の『間』」のことではなく、「夕食の『前』」のことであることを言うためには、その「夕食」が「過越(すぎこし)の食事」であることが言えるとよいと思います。
「その5」と「その6」で述べたように、悪魔がユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れたのは、「過越(すぎこし)の祭りの『前』」のことである、と考えられます。
そしてそれは、マタイの福音書26章17節(その6前半)の、「過越(すぎこし)の食事」の『前』のことでもあります。
ヨハネの福音書13章2節(上記冒頭)の「夕食」が、「過越(すぎこし)の食事」であるなら、悪魔がユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れたのは、「夕食の『間』」のことではなく、「夕食の『前』」のことである、ということになります。
ヨハネの福音書13章2節(上記冒頭)の「夕食」は、「過越(すぎこし)の食事」なのでしょうか。
今は簡単に言いますが、ヨハネの福音書13章全体を読むと、その「夕食」は、「過越(すぎこし)の食事」である、と言うことができると思います。
したがって、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」(ヨハネ13:2、上記冒頭)のは、「夕食の『間』」のことではなく、その「夕食」の『前』のことであった、となります。
悪魔がユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れていたのが、「過越(すぎこし)の祭りの『前』」であり、「夕食」の『前』、すなわち、「過越(すぎこし)の食事」の『前』のことであるとすると、それは、「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」(ルカ22:3、その3冒頭)ときのことではないか、という考えが浮かびます。
その8、に続きます。