「死」について その3

新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙2章9節(その1、冒頭)最後の行の『味わわれた』と、マタイの福音書16章28節(その1、後半)最後の行の『味わわない』は、ネストレ・アーラントのギリシャ語では、形は違いますが、同じ言葉が用いられています。

 

したがって、『味わわれた』と『味わわない』の『味わう』は、同じような意味で用いられている、と考えることができると思います。

 

マタイの福音書16章28節(その1、後半)の「死を味わわない」というのは、どのような意味であると考えられるでしょうか。

 

「死を味わわない」と言う場合の「死」というのは、イエス遂げられたような、十字架の上での死、のような死のことと考えてよいでしょうか。

 

もしそう考えてよいとすると、「死を味わわない」というのは、「ここに立っている人々」(マタイ16:28)の中のある人たちは、十字架の上での死のような死を遂げることはない、という意味になると思います。

 

少しややこしくなってきたので、一度整理します。

 

へブル人への手紙2章9節(その1、冒頭)下から2行目の「・・・その死・・・」というのが、イエスの遂げられた、十字架の上での死のことだとすると、マタイの福音書16章28節(その1、後半)の「死を味わわない」というのは、イエスの十字架の上での死のような死を遂げることはない、という意味になると考えられる、ということです。

 

ネストレ・アーラントのギリシャ語では、『味わわれた』(へブル2:9)と、『味わわない』(マタイ16:28)は、同じ言葉が用いられているからです。

 

へブル人への手紙2章9節(その1、冒頭)の記述だけを見ると、「その死」は、十字架の上での死と考えることはできると思います。

 

しかし、マタイの福音書16章28節(その1、後半)の記述と照らし合わせると、どうでしょうか。

 

そのように考えてよいでしょうか。

 

その4、に続きます。