「死」について その4

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書16章28節(その1、後半)の「決して死を味わわない」というのは、特定の死、例えば、十字架の上での死のような死、を味わわない、ということではなく、「死そのもの」を味わわない、ということではないかと思います。

 

どういうことでしょうか。

 

例えば、『新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書8章51節と52節に、次のように書かれています。
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51節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
52節
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者ちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。
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51節に、「・・・だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」とあります。

 

また、52節に、「・・・『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。」とあります。これはユダヤ人たちが言ったことです。

 

52節でユダヤ人たちが言っている、「決して死を味わうことがない」、という場合の「死」は、例えば、「寿命」で死んだ場合のような死のこと、と言うことができると思います。

 

アブラハムは死に、預言者たちも死にました」(52節、2行目から)、というユダヤ人たちの言葉から、そのように言うことができると思います。

 

しかし、51節でイエスが言われている、「決して死を見ることがありません」(51節)というのは、ユダヤ人たちが言っている、「決して死を味わうことがない」、ということとは異なる意味で言われている、と言うことができると思います。

 

ユダヤ人たちが言っていると思われる、「寿命」で死ぬような場合は、「死を見る」ことになると思われるからです。

 

エスが言われた、「決して死を見ることがありません」(51節)というのは、どのような意味であると考えられるでしょうか。

 

その5、に続きます。