「実」について その3

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書15章4節に、次のように書かれています。
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15章4節
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
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「にせ預言者たち」(マタイ7:15、その1前半)は「わたしに」、すなわち、「イエスに」とどまっている、と言うことはできるでしょうか。

 

「イエスに」とどまっている者が、「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼で」(マタイ7:15)ある、ということは考えられるでしょうか。

 

「貪欲な狼」が「羊のなり」を、「装っている」と言うことができると思います。これは、「欺き」と言うことができるのではないでしょうか。

 

このような「貪欲な狼」である「にせ預言者たち」が、イエスにとどまっている、ということは考えられません。

 

このような「にせ預言者たち」は「実を結ぶことはでき」(15章4節、上記)ない、ということになり、したがって、「父がそれを取り除」(15章2節)く、ということになると思います。

 

同じように、「あなたがた」、すなわち「弟子たち」(ヨハネ13:5をご参照ください)も、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(15章4節)、ということになります。

 

マタイの福音書13章22節に、「・・・いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」とあります。

 

「実を結ばない」のであれば、「父がそれを取り除」(ヨハネ15:2)く、ということになると思います。