『新改訳聖書』第3版の使徒の働き2章27節に、次のように書かれています。
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2章27節
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、
あなたの聖者が朽ち果てるのを
*お許しにならないからである。
* 直訳「与える」
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また、同章31節に、次のように書かれています。
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2章31節
それで後(のち)のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
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27節に、「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、・・・」とあり、31節に、「・・・『彼はハデスに捨てて置かれず、・・・』・・・」、とあります。
「彼」(31節)というのは、「キリスト」のこと、と言うことができます。
これらの節の記述から、キリストであるイエスは、その「たましい」が「ハデス」に捨てられた、と言うことができると思います。
上記2章31節1行目に、「・・・キリストの復活・・・」とあります。
この2章31節の記述から、「キリストの復活」というのは、キリストが「『ハデス』からよみがえる」こと、と考えられます。
「彼は『ハデス』に捨てて置かれず」、という言葉があるからです。
そして、「『ハデス』からよみがえる」まで、キリストであるイエスは、その「たましい」が『ハデス』にとどまっている、ということになります。
使徒の働き2章24節(その6、前半)1行目から、「・・・神は、この方を死の*苦しみから解き放って、よみがえらせました。・・・」とあります。
この言葉から、「この方」は、よみがえる前に「死の苦しみ」にあった、ということが分かります。そして、ただ単に「よみがえる前に」と言うだけなら、「死の苦しみ」というのは、十字架の上にあったときの「死の苦しみ」のこと、と言うことはできます。
十字架の上で苦しまれたのは、「よみがえる前」である、と言うことができるからです。
しかし、「その6」で見たように、使徒の働き2章24節(その6、前半)1行目の、「死の苦しみ」を十字架の上での「死の苦しみ」と考えると、理解することが難しくなると思います。
「この方が死につながれている」というのは、イエスの「たましい」が「ハデス」に捨てられてからのことであり、「ハデス」に『とどまっている』、ということを意味しているのではないでしょうか。
つまり、「死の苦しみから解き放」(使徒2:24)された、というのは、十字架の上での「死の苦しみ」から解き放されたということではなく、「ハデス」に『とどまっている』間の「死の苦しみ」から解き放された、ということではないか、ということです。
いかがでしょうか。
仮にそうだとすると、使徒の働き2章24節(その6、前半)で言われている「死の苦しみ」というのは、十字架の上での死の苦しみというよりは、『ハデス』の中での「死の苦しみ」のこと、ということになります。
ルカの福音書16章23節に、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」と書かれています。
「その金持ちは、ハデスで苦しみながら・・・」とあります。「ハデス」では「苦しむ」、ということだと思います。
イエスのたましいも、『ハデス』で苦しんだのではないかと思われます。
その8、に続きます。