「契約」について その7

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書32章39節と40節(その6前半)に、次のように書かれています。
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39節
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後(のち)の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、
40節
わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
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39節1行目に、「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、・・・」とあります。

 

捕囚から帰って来た人々は、「『いつも』わたしを恐れ」ているとは言えない、と言うことができると思います。エズラ9章1節から4節まで(その6後半)をご参照ください。

 

また、捕囚から帰って来た人々は、「一つの心」(エレミヤ書32章39節、上記冒頭)にはなっていません。

 

エズラ記9章1節(その6後半)に書かれているような『不信の罪』を犯す者がいる「イスラエルの子ら」は、「幸福に」なっていると言えるでしょうか。

 

エズラ記9章3節(その6後半)に、「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。」とあります。

 

これは、「幸福に」(上記冒頭40節)なっている人の行為と言えるでしょうか。

 

もちろん、言えません。

 

エズラ記9章1節(その6後半)に書かれている「イスラエルの民や、祭司や、レビ人(びと)」は、『不信の罪』を犯す者であり、「イスラエルの神のことばを恐れている者」ではない、と言うことができます。

 

以上見て来たように、エレミヤ書32章40節に、エレミヤ書50章5節(その1冒頭)に脚注のある「とこしえの契約」がありますが、この「とこしえの契約」は、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したとき、及びそれ以降のことではない、と言うことができます。

 

「それ以降」というのが、現在よりも後(あと)の時代を含む、ということを別にして、です。

 

言い換えると、「それ以降」というのは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還してから現在まで、ということです。

 

エズラ記の時代以降マラキ書の時代までに、「とこしえの契約」が結ばれたことを示す箇所を見つけることができません。

 

見つけたらもう一度考えますが、今のところ、「とこしえの契約」が結ばれるのは、現在よりも後(あと)のことであると考えています。

 

現在も、「とこしえの契約」が結ばれている、とは言えません。

 

イスラエルの子ら」は、現在、「幸福に」(エレミヤ32:40、上記冒頭)なっている、とは言えないからです。

 

イスラエルでは、紛争が絶えません。

 

また、「一つの心」(エレミヤ32:39、上記冒頭)になっている、とは言えません。

 

「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与え」(エレミヤ32:40、上記冒頭)た、とも言えません。

 

イスラエルの神のことばを恐れて」(エズラ9:4、その6後半)、イスラエルの神のことばを守っていないからです。

 

現在のイスラエル人は、「若いころから、わたしの目の前に悪のみを行」(エレミヤ32:30、その2前半)っていた「イスラエルの子らとユダの子ら」(同)と共通する点がある、と言えるのではないでしょうか。

 

そして、エレミヤ書32章40節(上記冒頭)の「とこしえの契約」というのは、エレミヤ書50章5節(その1冒頭)の「とこしえの契約」のことである、と考えられます。

 

いかがでしょうか、どのように思われますか。