「子孫」について その2

新改訳聖書』第3版の創世記22章17節と18節(その1、前半)の、「あなたの子孫」の「あなた」というのは誰か、と言いますと、それは「アブラハム」である、となります。

 

22章17節に、「わたしは・・・あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・」とあり、同章18節に、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる・・・」とあります。

 

これらの二つの節の「みことば」は、「あなたの子孫」がいなければ成就されることはなく、したがって『無効になる』、と言うことができると思います。「あなたの子孫を・・・増し加えよう」ですから、「あなたの子孫」がいなければ、「増し加え」られることはできません。

 

また、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」、ということですから、「あなたの子孫」がいなければ、「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」ことはできません。

 

これらの「みことば」が成就され、『無効にならない』ためには、「あなたの子孫」がいなければならないのです。

 

そして「あなたの子孫」がいるためには、アブラハムに「子ども」がいなければなりません。

 

ローマ人への手紙9章7節と8節に、次のように書かれています。
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7節
アブラハムから出たからと言って、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
8節
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
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1行目から、「アブラハムから出たからと言って、すべてが子どもなのではなく、・・・」とあり、続けて、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる・・・」とあります。

 

「イシュマエル」は「アブラハムから出」ました。「アブラハム」の子どもです。しかし彼は「約束の子ども」ではなく、「肉の子ども」である、と言うことができると思います。「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のですから、イシュマエルから出る者は「あなたの子孫と呼ばれる」のではない、ということになると思います。

 

「イシュマエル」は、「ハガル」が産んだ男の子で、ハガルはサライの女奴隷」(創世記16:8)または「はしため」(創世記21:10)です。「サライ」はのちに、「サラ」と呼ばれます。

 

そのサラはアブラハムに、「このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」(創世記21:10)、と言いました。アブラハムは悩みましたが、神はアブラハムに「悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」(創世記21:12)と仰せられました。これらのことは、創世記21章10節から12節までに書かれています。

 

サラが「このはしための子は、・・・跡取りになるべきではありません」(創世記21:10)と言ったことについて、神はアブラハムに、「言うとおりに聞き入れなさい」、と仰せられました。

 

つまり神は、「このはしための子は、・・・跡取りになるべきでは」ない、ということをお認めになった、と言うことができると思います。

 

言い換えると、「イシュマエル」は「跡取りになる」「子ども」ではなく、「イサク」がその「子ども」である、ということです。そして、「跡取りになる」「子ども」である「イサク」から出る者が「あなたの子孫」と呼ばれる、ということです。

 

キリスト・イエスダビデの子孫(ローマ1:3)ですが、イサクの子孫でもある、と言うことができると思います。ダビデはイサクの子孫だからです。イサクの子であるヤコブ、そしてヤコブの子であるユダ、そのユダの子孫がダビデです。マタイ福音書1章1節から6節までを参照されるとよいのではないか、と思います。

 

その3、に続きます。