「主の日」について その18

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書24章21節に、次のように書かれています。
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21節
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
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1行目から、「・・・世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある・・・」とあります。

 

似たようなことが、ヨエル書2章2節(その14、中ほど)に書かれています。

 

ヨエル書2章2節は、次のようになっています。
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2節
  やみと、暗黒の日。
  雲と、暗やみの日。
  山々に広がる暁の光のように数多く強い民。
  このようなことは昔から起こったことがなく、
  これから後の代々の時代にも再び起こらない。
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4行目から、「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後(のち)の代々(よよ)の時代にも再び起こらない。」とあります。

 

これは、マタイの福音書24章21節(上記)の、「・・・世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある・・・」、に似ています。

 

ヨエル書2章2節(上記)に書かれていることは、「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。」という記述から、「の日」のことと言うことができると思います。ゼパニヤ書1章15節(その14、後半)もご参照ください。

 

仮に、この2章2節(上記)4行目からの、「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後(のち)の代々(よよ)の時代にも再び起こらない・・・」というのが、マタイの福音書24章21節(上記冒頭)の、「・・・世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある・・・」ときのことであり、また、マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれていることが、ヨエル書2章10節(その16、前半)の、「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」、のことだとすると、マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれていることは、「日」のことと考えられる、ということになります。

 

ヨエル書2章2節(上記)4行目からの記述は、「の日」のことと言うことができ、またマタイの福音書24章21節(上記冒頭)の、「・・・ひどい苦難・・・」に続いて、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされ」る、と書かれているからです。

 

ヨエル書2章10節(その16、前半)の記述からすると、マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれている、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされ」るときには、「の日」はすでに始まっている、と言うことができると思います。

 

ヨエル書2章10節(その16、前半)の記述が、マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれているときのことだとすると、です。

 

仮に、マタイの福音書24章21節(上記冒頭)の、「・・・ひどい苦難がある・・・」ときが、「の日」のことであるとすると、その「ひどい苦難」は、「山々に広がる暁の光のように数多く強い民」によってもたらされるのではないか、という考えが浮かびます。

 

要約します。

 

マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれている、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」、というのは、ヨエル書2章10節(その16、前半)との関連で考えると、『の日のとき』のことであり、ヨエル書2章31節(その17、冒頭)との関連で考えると、「の日」の『前』のことである、となります。

 

また、ヨエル書2章10節(その16、前半)との関連で考えた場合、マタイの福音書24章21節(上記冒頭)の記述が、ヨエル書2章2節(上記)に書かれているときのことだとすると、マタイの福音書24章29節(その16、後半)に書かれていることは、「の日」のことになる、と考えられます。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。