『新改訳聖書』第3版のヨエル書2章11節に、次のように書かれています。
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11節
主は、ご自身の軍勢の先頭に立って
声をあげられる。
その隊の数は非常に多く、
主の命令を行う者は力強い。
主の日は偉大で、非常に恐ろしい。
だれがこの日に耐えられよう。
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最後の行に、「だれがこの日に耐えられよう。」とあります。
「この日」というのは、直前の行の「主の日」のこと、と言うことができます。
「だれがこの日に耐えられよう。」は「だれが主の日に耐えられよう。」となります。
ヨハネの黙示録6章17節に、次のように書かれています。
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17節
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
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「・・・だれがそれに耐えられよう。」とあります。
「それ」というのは、前文にある「御怒りの大いなる日」のこと、と言うことができます。
「・・・だれがそれに耐えられよう。」は、「・・・だれが御怒りの大いなる日に耐えられよう。」となります。
ヨエル書2章11節(上記冒頭)5行目からの、「主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」と、ヨハネの黙示録6章17節(上記)の、「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」は、よく似ています。
これらの二つの書に書かれていることは、同じときのことではないか、という考えが浮かびます。
ヨハネの黙示録6章17節(上記)の、「御怒りの大いなる日」というのは、ヨエル書2章31節(その4冒頭)の、「主の大いなる恐るべき日」のことであり、また、ヨエル書2章11節(上記冒頭)等の、「主の日」のことではないか、と思われます。
また、ゼパニヤ書1章15節(その3前半)の、「その日(すなわち、主の日)は激しい怒りの日」という言葉からも、ヨハネの黙示録6章17節(上記)の、「御怒りの大いなる日」というのは、「主の日」のことではないか、と思われます。
「主の日」について、の「その1」から「その3」まででは、イザヤ書およびゼパニヤ書との関連で、ヨハネの黙示録6章15節から17節までに書かれていることは、「主の日」のことではないか、と述べましたが、「その4」から「その6」まででは、ヨエル書との関連で述べました。
今のところまだ断定はしませんが、ヨハネの黙示録6章15節から17節まで(その1後半)に書かれていることは、「主の日」のことではないか、と思います。
いかがでしょうか。