「主の日」について その10

新改訳聖書』第3版のヨエル書1章8節に、次のように書かれています。
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8節
  若い時の夫のために、
  荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。
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このように言われているのは、「一つの国民がわたしの国に攻め上(のぼ)った」(6節)結果、「若い時の夫」が殺されたからではないかと思われます。

 

次に、ヨエル書1章11節に、次のように書かれています。
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11節
  農夫たちよ。恥を見よ。
  ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。
  小麦と大麦のために。
  畑の刈り入れがなくなったからだ。
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「畑の刈り入れがなくなった」のも、「一つの国民がわたしの国に攻め上(のぼ)った」(6節)ためではないか、と思われるのですが、これについては、「ききん」との関連も考えられます。

 

12節に、「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた」、とあるからです。

 

そのようになったのは、雨がふらないで「ききん」になったため、と考えられるのです。

 

ヨエル書1章12節は、次のようになっています。
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12節
  ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、
  ざくろ、なつめやし、りんご、
  あらゆる野の木々は枯れた。
  人の子らから喜びが消えうせた。
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最後の行に、「人の子らから喜びが消えうせた。」とあります。

 

ヨエル書1章16節に、次のように書かれています。
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16節
  私たちの目の前で食物が断たれたではないか。
  私たちの神の宮から
  喜びも楽しみも消え失せたではないか。
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2行目から、「私たちの神の宮から喜びも楽しみも消え失せたではないか。」とあります。

 

12節最後の行の、「・・・喜びが消えうせた・・・」や、16節最後の行の、「喜びも楽しみも消え失せた・・・」、というのは、エレミヤ書25章10節に書かれていることではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

 

エレミヤ書25章10節は、次のようになっています。
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10節
わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。
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「わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声・・・を消し去る。」とあります。

 

これは、ヨエル書1章12節の「喜びが消えうせた」、また、同章16節の「喜びも楽しみも消え失せた」、を思わせます。

 

仮に、ですが、エレミヤ書25章10節に書かれていることが、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることの預言だとすると、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることは、「ネブカデ『レ』ザル」の時代のことになる、と言うことができます。

 

そうすると、ヨエル書1章6節の、「一つの国民」というのは、「カルデヤ人」のことではないか、ということになります。

 

これについても、まだ断定はしません。

 

ヨエル書1章12節と16節に書かれていることは、『日』の『前』の、の日が『近い』ときのことと考えられます。

 

仮に、エレミヤ書25章10節に書かれていることが、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることの預言だとすると、エレミヤ書25章10節に書かれていることが成就するのは、の日』の『前』の、の日が『近い』ときのこと、ということになります。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。