『新改訳聖書』第3版のヨエル書1章8節に、次のように書かれています。
***
8節
若い時の夫のために、
荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。
***
このように言われているのは、「一つの国民がわたしの国に攻め上(のぼ)った」(6節)結果、「若い時の夫」が殺されたからではないかと思われます。
次に、ヨエル書1章11節に、次のように書かれています。
***
11節
農夫たちよ。恥を見よ。
ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。
小麦と大麦のために。
畑の刈り入れがなくなったからだ。
***
「畑の刈り入れがなくなった」のも、「一つの国民がわたしの国に攻め上(のぼ)った」(6節)ためではないか、と思われるのですが、これについては、「ききん」との関連も考えられます。
12節に、「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた」、とあるからです。
そのようになったのは、雨がふらないで「ききん」になったため、と考えられるのです。
ヨエル書1章12節は、次のようになっています。
***
12節
ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、
ざくろ、なつめやし、りんご、
あらゆる野の木々は枯れた。
人の子らから喜びが消えうせた。
***
最後の行に、「人の子らから喜びが消えうせた。」とあります。
ヨエル書1章16節に、次のように書かれています。
***
16節
私たちの目の前で食物が断たれたではないか。
私たちの神の宮から
喜びも楽しみも消え失せたではないか。
***
2行目から、「私たちの神の宮から喜びも楽しみも消え失せたではないか。」とあります。
12節最後の行の、「・・・喜びが消えうせた・・・」や、16節最後の行の、「喜びも楽しみも消え失せた・・・」、というのは、エレミヤ書25章10節に書かれていることではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。
エレミヤ書25章10節は、次のようになっています。
***
10節
わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。
***
「わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声・・・を消し去る。」とあります。
これは、ヨエル書1章12節の「喜びが消えうせた」、また、同章16節の「喜びも楽しみも消え失せた」、を思わせます。
仮に、ですが、エレミヤ書25章10節に書かれていることが、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることの預言だとすると、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることは、「ネブカデ『レ』ザル」の時代のことになる、と言うことができます。
そうすると、ヨエル書1章6節の、「一つの国民」というのは、「カルデヤ人」のことではないか、ということになります。
これについても、まだ断定はしません。
ヨエル書1章12節と16節に書かれていることは、『主の日』の『前』の、主の日が『近い』ときのことと考えられます。
仮に、エレミヤ書25章10節に書かれていることが、ヨエル書1章12節と16節に書かれていることの預言だとすると、エレミヤ書25章10節に書かれていることが成就するのは、『主の日』の『前』の、主の日が『近い』ときのこと、ということになります。
いかがでしょうか。どのように思われますか。