「来られる」について その3

新改訳聖書』第3版のミカ書1章3節に、次のように書かれています。
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3節
 見よ。は御(み)住まいを出、
 降りて来て、
 地の高い所を踏まれる。
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1行目から、「・・・は・・・降りて来て、地の高
い所を踏まれる。」とあります。

 

「『地の』高い所を踏まれる」という言葉から、『地に』来られる、と言うことができると思います。

 

わたしは以前、「来られる」について その2(2021-02-17)、の下から二段落目で、次のように述べました。

 

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引用された詩篇の記述からすると、主は『雲の上まで』来られましたが、そのとき、雲の下は「暗やみ」であるのに対して、『雲の上』には光があり輝きがある、と考えられます。
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「引用された詩篇」というのは、詩篇18篇9節(その2、冒頭)、および同篇11節と12節(その2、前半)のことです。

 

詩篇18篇9節(その2、冒頭)、および11節と12節(その2、前半)では、主は『雲の上まで』来られると考えられます。

 

それに対して、ミカ書1章3節(上記冒頭)では、は、『地に』来られる、と言うことができると思います。

 

『雲の上』というのは、『空中』のこと、と言うことができるのではないでしょうか。

 

テサロニケ人への手紙 第一4章16節と17節に、次のように書かれています。
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16節
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17節
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
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16節に、「主は、・・・ご自身天から下って来られます。・・・」とあり、17節に、「・・・生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」とあります。

 

「引き上げられ、『空中』で主と会う」、とあります。

 

つまり、主はこのとき、『空中』におられる、ということです。

 

この、テサロニケ人への手紙 第一4章17節の、「『空中』で主と会う」、というのは、詩篇18篇9節から12節までに書かれているときのことではないか、と思われるのですが、いかがでしょうか。

 

どのように思われますか。