「穴」について その8

新改訳聖書』第3版の詩篇27篇11節から14節までに、次のように書かれています。
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11節
よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
12節
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。
13節
ああ、私に、
生ける者の地でのいつくしみを見ることが
信じられなかったなら―
14節
待ち望め。を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。を。
***

 

11節に、「よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。」とあります。

 

が「あなた(すなわち、)の道を私に教えてくださ」らなければ、また、「私を平らな小道に導いてくださ」らなければ、「私」は「私を待ち伏せている者ども」の道を歩むかもしれない、ということが示唆されているのではないでしょうか。

 

12節1行目に、「私を、私の仇(あだ)の意のままに、させないでください。」とあります。

 

が「あなた(すなわち、)の道を私に教えてくださ」らなければ、また、「私を平らな小道に導いてくださ」らなければ、「私」は「私の仇(あだ)の意のままに」なるかもしれない、ということが示唆されているのではないでしょうか。

 

12節1行目に続いて2行目から、「偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。」とあります。

 

「私」は困難な状況にある、と言うことができると思います。

 

「偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いている」ために、そのような困難に負けて、から離れる、ということもあるのではないでしょうか。

 

言い換えると、「私」は「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なる、ということです。

 

「私」が「生ける者の地でのいつくしみを見ることが信じられなかったなら」(13節)、「私」はら離れ、「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なる、ということもあるのではないでしょうか。

 

だから、「雄々しくあれ。心を強くせよ。」(14節)と、自分を鼓舞するかのように言われているのではないでしょうか。

 

「私を待ち伏せている者ども」(11節)や、「私の仇(あだ)」(12節)や、「偽りの証人ども」(12節)が「私に立ち向か」(12節)うようなときが、「私があなたに助けを叫び求めるとき」(詩篇28篇2節、その7中ほど)ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

このようなときに、もしもが「私に耳を閉じ」(詩篇28篇1節、その6冒頭)、「私に口をつぐまれ」(同)るなら、「私」は「穴に下る者と同じにされ」(同)る、ということではないかと思われます。

 

また、「悪者どもや不法を行う者どもといっしょに、・・・かたづけ」(詩篇28篇3節、その7冒頭)られる、ということではないかと思われます。

 

「私」はどうして「悪者どもや不法を行う者どもといっしょに、私をかたづけないでください」、とに願っているのかと言いますと、「私を待ち伏せている者ども」(27篇11節)や、「私の仇(あだ)」(同篇12節)や、「偽りの証人ども」(同12節)が「私に立ち向か」(12節)うようなときに、困難に負けてから離れ、「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なるかもしれませんが、「私」はから離れることはありませんから、ということではないかと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。