『新改訳聖書』第3版の詩篇27篇11節から14節までに、次のように書かれています。
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11節
主よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
12節
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。
13節
ああ、私に、
生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら―
14節
待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。
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11節に、「主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。」とあります。
主が「あなた(すなわち、主)の道を私に教えてくださ」らなければ、また、「私を平らな小道に導いてくださ」らなければ、「私」は「私を待ち伏せている者ども」の道を歩むかもしれない、ということが示唆されているのではないでしょうか。
12節1行目に、「私を、私の仇(あだ)の意のままに、させないでください。」とあります。
主が「あなた(すなわち、主)の道を私に教えてくださ」らなければ、また、「私を平らな小道に導いてくださ」らなければ、「私」は「私の仇(あだ)の意のままに」なるかもしれない、ということが示唆されているのではないでしょうか。
12節1行目に続いて2行目から、「偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。」とあります。
「私」は困難な状況にある、と言うことができると思います。
「偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いている」ために、そのような困難に負けて、主から離れる、ということもあるのではないでしょうか。
言い換えると、「私」は「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なる、ということです。
「私」が「生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら」(13節)、「私」は主から離れ、「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なる、ということもあるのではないでしょうか。
だから、「雄々しくあれ。心を強くせよ。」(14節)と、自分を鼓舞するかのように言われているのではないでしょうか。
「私を待ち伏せている者ども」(11節)や、「私の仇(あだ)」(12節)や、「偽りの証人ども」(12節)が「私に立ち向か」(12節)うようなときが、「私があなたに助けを叫び求めるとき」(詩篇28篇2節、その7中ほど)ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
このようなときに、もしも主が「私に耳を閉じ」(詩篇28篇1節、その6冒頭)、「私に口をつぐまれ」(同)るなら、「私」は「穴に下る者と同じにされ」(同)る、ということではないかと思われます。
また、「悪者どもや不法を行う者どもといっしょに、・・・かたづけ」(詩篇28篇3節、その7冒頭)られる、ということではないかと思われます。
「私」はどうして「悪者どもや不法を行う者どもといっしょに、私をかたづけないでください」、と主に願っているのかと言いますと、「私を待ち伏せている者ども」(27篇11節)や、「私の仇(あだ)」(同篇12節)や、「偽りの証人ども」(同12節)が「私に立ち向か」(12節)うようなときに、困難に負けて主から離れ、「私の仇(あだ)の意のままに」(12節)なるかもしれませんが、「私」は主から離れることはありませんから、ということではないかと思います。
いかがでしょうか。どのように思われますか。