また、『新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録4章9節から11節までに、次のように書かれています。
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9節
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座(みざ)に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
10節
二十四人の長老は御座(みざ)に着いている方の御前(みまえ)にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座(みざ)の前に投げ出して言った。
11節
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと
力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物
を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在
し、また創造されたのですから。」
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9節1行目から、「・・・永遠に生きておられる、御座(みざ)に着いている方・・・」とあります。
この言葉から、「御座(みざ)に着いている方」は、「永遠に生きておられる」方である、ということが分かります。
「永遠に生きておられる」方ですから、その方は「年を経た方」である、と言うことができると思います。
10節から11節にかけて、『(10節)二十四人の長老は御座(みざ)に着いている方の御前(みまえ)にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、・・・言った。(11節)「主よ。われらの神よ。・・・」』とあります。
「主よ。われらの神よ。」というのは、「神である主」のこと、と言うことができるのではないでしょうか。
二十四人の長老は、「永遠に生きておられる方」に、「主よ。われらの神よ。」と、言ったことになります。
つまり、「神である主よ。」と言ったのと同じことになるのではないかと考えられます。
「永遠に生きておられる」方が「年を経た方」であると言えるとすると、「年を経た方」というのは、「神である主」のことである、と言うことができると思います。
現時点では、以上のように考えています。
そして、もし「年を経た方」が「神である主」だとすると、その方が来られるのは、現在よりも『あと』のことになると思います。
それは、「さばきが行われ」(22節)るときのあたりのことであり、「聖徒たちが国を受け継ぐ時」(同)のあたりのことだと思います。つまり、現在よりも『あと』のことだと思います。
いかがでしょうか、どのように思われますか。